なぜ「かみつく」を出版するか2




「かみつく」「沖縄に内なる民主主義はあるか」を
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「かみつく」20日より販売
販売書店Booksきょうはん


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県内書店

残念ながら「かみつく」を置いてくれる書店は少ないです。
しかし、全店で注文はできます。










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11月15日の「沖縄の真実」です。
米兵の婦女暴行、中学生殴打事件について話しました。
終了前の尺八演奏はオリジナルです。
題名は「闇の中の叫び」。
尺八によるフリージャズ演奏です。

なぜ「かみつく」を出版するか2





予想外の人から電話があった。
映像に出ている初代沖縄防衛協会婦人部長・中村俊子さんである。
俊子さんは驚くなかれ今年90歳である。
彼女はFM21の「沖縄の真実」の
企画・運営している中村雅巳氏のお母さんである。
「沖縄には内なる民主主義はあるか」を出版する前は
中村雅巳氏とは面識はなかった。
狼魔人日記の江崎さんを通じて、
FM21の「沖縄の真実」への出演を依頼してきたのが中村雅巳氏と
知り合うきっかけであった。
その時に、江崎さんから中村氏の母親は90歳であるとは聞いた。

仲村俊子さんの電話に私は驚き、恐縮したが、
俊子さんは私に、
「ありがとうございます」と礼を言った。
私の本を読んで、
今まで鬱屈していた気持ちがはればれとしたというのだ。
「琉球処分はなにを処分したか」で、
琉球処分は廃藩置県のことであり、
廃藩置県は琉球王府を処分したのであり
沖縄の民を処分したのではない。
廃藩置県は沖縄を四民平等にし、
沖縄の近代化の始まりであった。
民主主義の側からみれば琉球処分は
素晴らしいものであると書いた。
俊子さんはその通りであると言い、
廃藩置県を琉球処分であると悪くいう沖教祖・学者たちに反発し、
イライラしていたが反論することができなくてくやしい思いをしていたというのだ。

沖縄に小学校を開校したのは明治政府であって
沖縄の人たちではないと私が言うと、
俊子さんは「そうですそうです」と言い、
政府は貧しい家の子供を学校に行かすためにお金もあげたといって、
とてもありがたいことであったと言った。
私が戦前は貧しくてソテツ地獄というのもあったと言うと、
方言に「ガシ」という言葉があり、
日照りが続いたり、暴風など自然災害が起こることを
「ガシ」と呼んでいたと話した。
「ガシ」は日本語では「餓死」である。
それほどに戦前の沖縄は死と隣り合わせの生活をしていたのである。

私とは初対面であるので俊子さんは挨拶程度の話をするつもりであった。
私もそのつもりであったが、私たちは30分も話した。
私は中村俊子さんがどういう人であるかは知らなかった。
数日前にユーチューブのビデオを見て、
俊子さんのことを知った。
俊子さんは沖教祖が左傾化したのに反発して
わずかの人たちで沖教祖を脱退したと講演で述べている。私は本で、

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沖縄の大衆運動は土地闘争に始まり、
途中から祖国復帰運動に転換した。
異民族に支配されるのを嫌った祖国復帰運動は1960年に始まるが、
復帰協が軍事基地反対を掲げたのは
1967年の復帰協第12回定期総会においてである。
しかし、その時は軍事基地反対であり、
軍事基地撤去を主張したわけではなかった。
復帰協が軍事基地撤去の運動方針を掲げるのは、
1969年の第14回定期総会においてである。
復帰協が軍事基地撤去の方針を掲げたのに反対した同盟系組織は復帰協から脱退した。
同盟系組織が抜けることによって、
人民党や社会党などの革新政党の影響が強くなり
復帰運動は急進的になっていった。
復帰協は「基地撤去」を強く主張するようになった。
祖国復帰をすれば
「核も基地もない平和で豊かな沖縄になる」というのが
祖国復帰運動のうたい文句だった。

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と書いた。
1969年以前までは祖国復帰運動は異民族の支配から脱して
祖国日本に復帰したいと言う素朴なものであった。
しかし、1969年に左傾化し、
同盟系が抜けて、
共産党、旧社会党の支配下に組み込まれるのである。
純朴な祖国復帰運動を主導していた沖教祖が
共産党、社会党の支配下に組み込まれて
政治組織になったのが1969年頃である。
俊子さんは沖教祖が左傾化したことに反発し、
沖教祖を脱退した。
1969年と言えば私が国文科委員長をやっていた頃である。
沖教祖が左系組織に転換したのは1969年頃であり、
それがどんどん強化されていって今日まで続いている。

1969年の頃、仲村俊子さんは沖教祖の左傾化と闘い、
私は革マル派の国文学科の委員長として学生運動をやり、
1971年には親友の町田が男子寮で殺された。
40年以上が過ぎて、
私が「かみつく」で町田の死を小説にして発表した年に
中村俊子さんに出会った。
不思議な縁である。

私は「沖縄に内なる民主主義はあるか」を書いたことで、
90歳になる中村俊子さんに感謝されたが、
感謝されたことが逆に私をとても感動させた。
純朴な性格であり、
沖縄の民を愛していたがゆえに沖教祖の左傾化に抵抗して闘った中村俊子さん。
最近亡くなった金城テルさん。
しかし、彼女たちの活動はマスコミに封殺されてきた。
これからもそうであろう。

マスコミが封殺している闇に
少しでも光を当てて
世間に見てもらわなければならない。
それが「かみつき」である。

1969年頃から急速に左傾化していった
沖教祖と持ちつ持たれつの関係がある革新三党は、
泥酔した米兵による事件に対して
次のように述べている。

共産党


日米政府に強く抗議するとともに、
県内のすべての米軍基地の撤去を求める。

社民党


全米兵を基地外に出さない措置や、
日米地位協定の全面改正などを求めた。
新里委員長は、
「相つぐ米兵の犯罪に県民の我慢は限界を超えて爆発寸前だ。
すべての米兵は一歩たりとも基地外に出すべきではない」と述べている。

社大党


米軍の綱紀粛正がなんの役にも立っていないことを再び証明した。
などと抗議し、
基地の撤去などを求めた。

革新三党の思想が混合しているのが沖教祖であり、反戦・反基地運動である。
三党の本音は米軍基地撤去である。
読谷村の事件も那覇市の事件も米兵の泥酔が原因である。読谷の中学生は軽傷で、
那覇市の事件は家の中で寝ただけである。
米兵の軽犯罪をまるで凶悪犯罪のように妄想し、
妄想を根拠に米軍基地撤去を主張する。
革新三党が反米主義・反資本主義であり
親社会主義だからである。
普天間飛行場の辺野古移設反対プラス米軍基地撤去は
革新政党の本音である。
しかし、革新政党の主張を貫くと、
米軍基地が沖縄に必要がなくなるまで
普天間飛行場はずっと固定することになる。

沖縄の米軍基地が必要なくなる日というのは、
中国が民主主義国家になった時である。
共産党一党独裁国家中国がアジアに君臨しているから
沖縄に米軍基地があるのだ。
中国が共産党一党独裁支配を続ける限り、
沖縄の米軍基地は必要であり、
米兵が事件を起こしたくらいで米軍基地の撤去はありえない。
ましてや、泥酔した米兵が軽犯罪を犯したから
米軍基地を撤去するなんて
大笑いのジョークにしかならない。

普天間飛行場の移設については、
革新三党・・・撤去・閉鎖、
自民・民主党・・・県外移設
と解決する方法が違っている。
しかし、革新三党もマスコミも違うことを言わない。
もし、県外移設が決まったら、
革新三党は猛反対するはずである。
特に本土にも党員がいる共産党と社民党は
「県外移設」反対しないわけにはいかない。
自民・民主と革新三党には主張のずれがあるが、
自民・民主と革新三党の
沖縄の政治家全員に共通していることがある。

市民の安全を米兵から守る思想がないことである。
夜間外出禁止令を出し、
MPなどが夜回りをしたとしても、
禁止令を破り深夜まで酒を飲み泥酔する米兵は必ずいる。
それが人間だ。
自衛隊でも警官でも公務員でも規則を破る者は必ずいる。それと同じだ。
教員でありながら
中学生の教え子にわいせつ行為する事件は後を絶たないのだ。
夜間外出禁止令破る米兵が居ても不思議ではない。
だから、
沖縄県民の安全を守るために、
沖縄の政治家も知恵を絞らなければならない。
読谷の事件が起こった時、
仲井間県知事・翁長市長は
那覇市民の安全を守るために警察の夜回りを強化したりして手を打つべきであった。
ところが翁長那覇市長は
「いつかはこんなことが起こるとおもっていた」
などと自分の予想があたったと自慢さえした。
米兵二人による婦女暴行事件は県側が防ぎようがなかったが、
読谷村と那覇市の事件は
仲井間県知事や石嶺村長、翁長市長が
市民の安全のための対処をしていれば防ぐことができた。
事件を米軍だけの性にするのは
政治家として無責任である。

沖縄の政治家は自分はなんにもしないで、
日米政府や米軍を責める。
まるでどれだけ厳しく非難するかに
政治生命をかけているようである。
沖縄の政治家たちはどうしようもない
他力本願精神なのだ。

沖縄の政治家を批判するためにも
「かみつく」は出版しなければならないのである。
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