元沖縄県知事太田氏批判

こんな沖縄に誰がした
1、 沖縄軍事基地強化の端緒―明治維新と沖縄

日本軍分遣隊の派遣と琉球王府側の抵抗

これは1875年(明治8年)に明治政府が琉球藩に分遣隊を設置した時の琉球藩と明治政府のやりとりを問題にしている。太田氏は1875年(明治8年)の日本の政治状況がどのようなものであり、明治政府はどこに向かって動いていたのかを考慮にいれていない。
大日本帝国憲法が発布されたのは1889年(明治22年)である。1875年(明治8年)は日本が江戸時代の封建社会から近代国家としての中央集権国家を目指している途中であった。

明治政府の動向を参考にしながら、太田氏の理論を批判していく。
明治維新から明治7年までの歴史を記録した。

慶応3年10月14日1867年11月9日大政奉還)。同年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。
新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。
明治元年3月14日(1868年4月6日)、五箇条の御誓文の発布。
同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。

明治2年3月(1869年4月)、議事体裁取調所による調査を経て、新たに公議所が設置された。

明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。

明治4年(1871年)には士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民もひとしく公務に就任できることとした。

明治5年(1872年)には徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。

1874年(明治7年)、前年のいわゆる明治六年の政変(征韓論の争議)に敗れて下野した副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平等が連署して、民撰議院設立建白書を左院に提出した。
薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。
この建白書では、官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張された。これを機縁として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。
このころには各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。

以上が明治政府のおおまかなながれである。
明治政府はすでに、廃藩置県、氏族の特権の廃止、徴兵制度の採用をしていたのだ。明治政府が目指しているのは近代的な中央集権国家であった。全国の藩を廃して県にする方針である明治政府は琉球が王府として存続すること認めていなかった。だから。琉球王府が王府として主張することが認められるはずはなかったのだ。

大田氏は、明治政府による分遣隊の沖縄駐留について「明治政府も薩摩が琉球の反乱を懸念して武器の保有を厳しく取り締まったのと同様に琉球藩内の安全を守るという口実で、逆に沖縄の人々を鎮撫するために軍隊を沖縄に常駐せしめようと図った」と理解している。しかし、明治政府が琉球の反乱を恐れていたとは考えにくい。明治政府は幕末から戦争の連続であったし、不平士族による反乱は頻発したがことごとく制圧している。明治政府が琉球王府を武力で制圧するのは赤子の手をひねるより簡単であった。武器の保有を厳しく取り締まったのは1876年(明治9年)に「廃刀令」を出し、全国で武器の所有を厳しく取り締まったのであり、琉球王府だけに要求したものではない。

太田氏は「半世紀もの長期にわたって国王として在位した尚真王が(在位1477~1526年)現行の日本国憲法を先取りする形で、琉球国内の一切の武器を廃棄して平和国家を志向した歴史的伝統があったからだ」となんと日本で戦国時代が始まった時代の頃の大昔の琉球王朝を例に出してきた。
琉球も三山が統一されるまでは戦争をしていた。それに八重山、宮古は琉球王朝が武力で制圧した。そして、奄美大島も武力で支配している。戦争がなくなったのは沖縄本島を中心にした島々をほぼ制圧したからである。琉球王朝に中国や九州を武力制圧する力がなかったからそれ以上の戦争をしなかったのだ。
太田氏は「琉球国内の一切の武器を廃棄し」たと述べているが、琉球王朝の武士以外の武器を廃棄したのであって琉球王朝が武器を廃棄したのではない。
平和が長く続いたのは琉球王朝だけではない。徳川幕府が支配した時代も長い間戦争もなく平和であったのだ。結果的に平和であったのを平和主義だと決め付けるのは間違っている。1609年に島津が琉球に侵攻した時は琉球王朝は島津軍と戦争をしいる。だから太田氏のいう「琉球国内の一切の武器を廃棄」したというのは事実ではない。琉球王朝が平和主義だったというのはまやかしだ。

明治政府と琉球王朝の対立は、琉球王朝は琉球王朝をなんとか存続しようとし、明治政府は廃藩置県を進めようとしている立場の違いから起こっていることである。
大田氏が琉球王朝の主張に賛成し、明治政府のやり方に反対するということは、太田氏は琉球王朝による沖縄の支配を認めるということである。つまり大田氏は武士の支配を認め身分制度を認めるということだ。

松田処分官は「琉球藩王家の体制、すなわち琉球の国体に関する事柄については、王家及び家臣が慎重に衆議をつくすため多少の日を費やするのも分かるが、分営設置の件は、王家が一々可否を論ずべき問題ではなく、王府は、ただひたすらに命令を遵守しさえすればよいにもかかわらず家臣たちがいたずらに時日を空費するのは、はなはだ不条理」と突き放している。廃藩置県をした明治政府にとって琉球王朝はすでに政治に必要のない存在だったのだ。その現実を受け入れることができない琉球王朝とのやり取りが展開されているだけだ。

太田氏は琉球王朝が善で明治政府が悪であるのことく書いているが、これは古い封建社会の支配者である琉球王朝と近代国家を目指している明治政府との対立の構図であり、封建国家である琉球王朝が崩壊していく過程として考えるべきだ。

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