革新政治に捻じ曲げられた「命どぅ宝」


革新政治に捻じ曲げられた「命どぅ宝」

「命どぅ宝」の格言はいつの時代からあるのだろう。私は中学や高校生の時に昔からの格言であると先生から聞いた。1960年代のことだ。ところが新聞のコラムに若いジャーナリストが「命どぅ宝」はいつごろから言われるようになったか不明であるといい。恐らく40年くらい前ではないだろうかと推察しているのを読んで私は驚いた。
ただ、彼女の推察にはそれなりの理由があった。1968年に嘉手納飛行場にB52重爆撃機が墜落炎上して、沖縄中が大騒ぎになり、一気に反戦ムードが盛り上がって、1969年には「命を守る県民共闘会議」が結成された。
「命を守る県民共闘会議」による最初の県民大会が与儀公園で行われたが、その時に「命を守る県民共闘会議」の代表者の演説で「命どぅ宝」が反戦・平和のキャッチフレーズとしてが使われた。その時から「命どぅ宝」が盛んに使われるようになった。だから、若いジャーナリストが「命どぅ宝」は40年くらい前に生まれたと思ってしまうのは無理のないことである。

その記事を読んだ時、私はたった40年で「命どぅ宝」の出所が不明になっていることに驚き、「命どぅ宝」は琉球王朝時代からの格言であることを新聞に投稿しようと思い、ネットで「命どぅ宝」について詳しく説明しているサイトを探した。ところが詳しく書いているサイトを見つけて私は再び驚いた。

ネットでもっとも権威アルある辞典ウィキペディアでは
「戦さ世んしまち 弥勒世ややがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝 (戦いが終わり、平和になるのだ。国民よどうか耐え忍んでくれ。命あっての物種だ。)」 という琉歌に由来する。この歌は琉球国最後の王である尚泰王の作とも伝えられるが、実際には日本政府による琉球処分の決定を受け、国を明け渡さざるを得なくなった王の断腸の思いを表現した芝居の中で創作された台詞である。

と説明されている。他には、

何をおいても命こそが大切であるという意味。沖縄戦の際、難民の一人によって叫ばれたとも伝えられる。1950年代に伊江島土地闘争のスローガンとして用いられ、さらに1980年代の反戦平和運動のなかで広く普及した。

幾多の苦難を体験したウチナーンチュが共有する反戦と平和の願いを込めたメッセージ。

何をおいても命こそが大切であるいう意味。沖縄戦の際、難民の一人によって叫ばれたとも伝えられる。

などがあった。ネットの「命どぅ宝」の説明を見て、私は苦笑せざるをえなかった

もし、「命どぅ宝」が芝居のセリフであったなら、軍国主義へと進んでいった戦前であったのにその言葉が語り告げられたのはおかしい。
それに、戦前生まれであり、学者である太田氏は琉球王朝時代の格言としている。私も生徒の時に、「命どぅ宝」は琉球王朝時代の格言であると先生から聞いた。実は私が先生から聞いた格言は「命どぅ宝」だけではなかった。「物食うすどぅ我が主(しゅう)」という格言についても教えられた。。「物食うすどぅ我が主(しゅう)」とは物を恵んでくれる人が私のご主人という内容で反戦・平和とは前々関係ないことわざである。しかし、先生が説明するときは必ずこの二つの格言を出し、二つの格言の内容は共通するものがあった。

「命どぅ宝」だけなら反戦と平和の願いとしての格言として説明できるが、「物食うすどぅ我が主(しゅう)」と一緒にすると「物食うすどぅ我が主(しゅう)」と反戦・平和とは内容がかけ離れすぎて「命どぅ宝」の説明とはバランスの取れる説明ができなくなる。つまり、私は「命どぅ宝」を反戦と平和の願いとしての格言としては説明されなかった。私が高校を卒業したの1967年である。1967年当時は「命どぅ宝」は反戦・平和の格言ではなかった。「命どぅ宝」が反戦・平和の格言として流布されるようになったのは1969年の「命を守る県民共闘会議」主催県民大会以後である。

太田氏は琉球王朝時代からの反戦・平和の格言であったと書いてある。明日は太田氏の矛盾を指摘していきたい。
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琉球王朝支配を認める大田氏


右の引用文は「 」は元防衛事務次官守屋武昌氏の述べたものである。守屋武昌氏は基地があることで沖縄に年間5829億円という莫大な金が入ると明言している。

守屋氏の発言を引用した太田氏は年間5829億円という莫大な金が沖縄に投入され、それによって潤う人もいればそうでない人もいるということを、沖縄が自立できない根拠にしている。守屋氏の発言を引用した太田氏は年間5829億円の基地関係の沖縄への投入が「いかなる意味でも自立できない」という根拠にしているが、自立できない事例を具体的には述べていないので、太田氏のいう自立できない根拠は分からないが、経済的に見れば、基地があるゆえに5829億円という莫大な金が沖縄に投入されているということは、基地がなくなればそれだけの金額が沖縄に投入されなくなるということになるのは明らかであり、そうなると沖縄はますます失業者が増え、日本一低い所得はもっと減り、沖縄はますます貧困になっていくことになる。
だから、沖縄が経済的に自立するには5829億円を新たに生み出すような産業を起こさなければならないということを守屋氏の発言から私は認識する。

しかし、太田氏は5829億円という莫大な金が沖縄に投入されていることが沖縄の自立を阻んでいると考えていて、太田氏の考えを推理すると、太田氏は5829億円が沖縄に投入されなければ沖縄は自立しハッピーであると主張していると考えられる。太田氏はアメリカ軍基地が沖縄に存在するより、全てのアメリカ軍基地を撤去して「芋と裸足の生活」をしたほうがいいというのだろうか。

太田氏のように、庶民に「芋と裸足」のような貧乏生活を強いるのは封建社会の支配者や軍国主義国家の支配者たちである。
太田氏は明治時代の沖縄の廃藩置県の時に中央政府と琉球王朝の様々な駆け引きでは琉球王朝の主張に賛成している。太田氏は沖縄の廃藩置県の問題については沖縄の庶民の立場ではなく琉球王朝の立場から沖縄を見ているのだ。
太田氏は沖縄に自己決定権があれば沖縄は琉球王朝が支配する社会でもでもいいという考えであるということが「こんな沖縄に誰がした」の本ではうかがえる。

太田氏に民主主義思想はない。太田氏は沖縄の社会が民主主義になり、沖縄の人々が経済的に豊かになることには関心がなくて、とにもかくにも日本政府やアメリカ政府が沖縄に介入するのを嫌い、介入すること全てが沖縄に不幸をもたらすと考えている。
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大田氏の的外れな理屈

「こんな沖縄に誰がした」からの抜粋です。




大田氏沖縄は沖縄の人々に帰属するはずのものと述べているがね過去に沖縄が沖縄の人々に帰属したことがある時代があっただろうか。薩摩藩が沖縄を支配した以前の琉球王朝時代でも、人口のわずか約5パーセントの琉球王朝の人間たちに沖縄は帰属していたのであって、沖縄の人々に帰属していたのではない。
一体、沖縄が沖縄の人々に帰属するというのはどのような社会なのだろうか。

そもそも、陸はともかく海空の一部をアメリカ軍が使用したからといって沖縄は不自由を強制されたといえただろうか。戦後間もない頃は旅客機は飛んでいなかったし、旅客機が飛ぶようになると那覇飛行場を使用するようになった。便が増えると那覇空港は拡張して需要に応じたから、不自由はしていない。アメリカ軍が管理している空域のせいで少々遠回りをするくらいで大きな支障はなかった。そして、その空域も日本に返還されるようになった。
港にしてもアメリカ軍が使用する港はアメリカ軍が造ったのであって、沖縄の港を強制的に接収して、沖縄に不自由を強制したわけではない。アメリカ軍の港が沖縄の海運業を妨げたことはなかったはずだ。

日本がハワイを奇襲攻撃してアメリカとの戦争を始めたのが原因で沖縄はアメリカに占領された。そして、ソ連、中国を中心とする社会主義国家圏とアメリカやヨーロッパを中心とする資本主義圏との核戦争を起こすかもしれないような厳しい対立があって、沖縄のアメリカ軍は強化されていった。
沖縄のアメリカ軍基地について考えるときは社会主義国圏と資本主義国圏の対立の世界情勢も考慮しなければならない。「沖縄は、沖縄の人々に帰属する」という単純な発想では不満を言うだけで、沖縄の問題はなにも解決できない。
ソ連が崩壊し、中国が市場経済を導入して、アメリカと貿易をやるようになって中国経済は大きく発展した。そして中国は多くの外資の参加を受け入れるようになったので、以前のような対立危機は緩和されてきたので、アジアのアメリカ軍も削減してきた。大田氏この事実を無視している。

沖縄の歴史は、琉球王朝時代、薩摩の琉球支配、明治時代の中央集権時代、アメリカ民政府時代、日本復帰に分けることができる。それぞれの時代の政治・経済の特徴を分析し、比較するべきだ。太田氏のように今日までずっと物扱いをされ続けたとしてひっくるめてしまうのはおかしい。

復帰後の沖縄は選挙で地方議員から国会議員まで選ぶことができるし、県知事も県民の直接選挙で選ぶ。沖縄は議会制民主主義国家である日本の一員であり、法でも政治でも経済でも特別に差別はされていない。

アメリカ軍の沖縄駐留の問題は国家と地方との意見の違いから生じているのであって、大田氏のいうような他社に利用されたというのではない。日本政府は中国や北朝鮮等の外国の侵略を防ぐためにアメリカ軍の駐留を許している。世界情勢の中の日本と沖縄のあり方としてアメリカ軍基地は考えるべきである。

アジアの全ての国が民主主義国家になり、政治・経済が安定すればアメリカ軍が沖縄に駐留する理由はなくなる。そして、間違いなくその方向に歴史は動いている。



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大田氏のあきれた理屈

元防衛事務次官の守屋昌氏が、軍用地主には年間900億円の借料支払われ、年間借料が350万円以上の軍用地主は6800人居て、米軍基地の従業員はおよそ9000人で457億円支払われている。基地があることで沖縄県に入る金額の合計は年間5829億円に上ると発言したことを引用した上で、大田氏は、
「この発言からも明らかなとおり、沖縄があらゆる意味でも自立できないでいるのも、ひとえに日米両軍によって首ねっこを押さえつけられているからにほかならない」と述べている。
かぜ、基地関係で年間5829億円もの莫大な金額が沖縄に入ってくるということが沖縄の首根っこを押さえることになるのだろうか。そして、なぜ5829億円のお金が沖縄に投入されることが沖縄の自立できない原因であるのか。太田氏は明らかであるというが全然明らかではない。

沖縄の経済が自立できるかできないかは沖縄の企業や農業、漁業などの生産力の問題であって、基地があったから沖縄の経済が自立できないというのはおかしい。戦前の沖縄の産業は製糖、味噌、酒、陶器くらいであって、紡績や機械製造業など近代産業はなかった。だから、戦後になって復興したのは製糖、味噌、酒、陶器類の産業であった。次第に鉄鋼、セメント、お菓子、建設業、機械工など戦後は様々な産業が登場したが、ほとんどは零細企業であり、沖縄の経済を飛躍的に発展させる企業はなかった。しかも、日本に復帰をしてからは本土の製品がどんどん沖縄に入ってきたために沖縄の零細企業は倒産していった。
沖縄には石油などの地下資源はない。それに赤土はやせていて農業には適していない。沖縄の生産業が発展するには日本のように加工貿易しかなかったが、沖縄には日本のような加工技術はなかった。沖縄の経済が発展しなかったのは基地とは関係ない。沖縄そのものに経済を発展させる原動力がなかったのが一番の原因だ。現在は国の指導で経済特区をつくり製造業を増やそうとしているが、牛歩の歩みだ。

戦後の沖縄はアメリカ軍基地のお陰で経済が発展したことは否定できない。その証拠に沖縄で発展したのは製造業ではなくてサービス業だった。沖縄の三次産業の発展はめざましいものがある。それは基地経済の影響だ。沖縄にアメリカ軍基地がなかったら沖縄のめざましい経済発展はなかった。

太田氏はアメリカ軍基地のない沖縄の自立した経済の方が沖縄の経済が発展するようなニュアンスであるが、それはあり得ない。経済学者は戦前の沖縄の経済力では県民は50万人から60万人くらいしか生きることができないと推計をしている。復帰する頃の沖縄の人口は120万人で戦前の限界人数の二倍である。それは沖縄の経済が目覚しく発展してきたかを示している。

沖縄の経済が自立するには観光業だけではなく、製造業をどんどん増やしていかなければならない。韓国、中国、台湾、ベトナムとの位置関係が扇の要である沖縄は、アジアから部品を集めて組み立てた製品を輸出する産業が発展できる可能性は高い。それにブラジルなどの中南米とアジア諸国との貿易の中継基地としても有望だ。

アメリカ軍基地がなくなれば沖縄の経済は発展するというまやかしの理屈はやめて、アメリカ軍基地とリンクさせないで沖縄の産業の発展にもっともっと真剣に取り組むべきだ。

戦前戦後の沖縄を見てきた大田氏は一体なにを見てきたのだろう。
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大田氏の琉球王朝の平和主義のまやかし

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太田氏は「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」と述べている。
太田氏の述べていることは本当なのだろうか。世界の歴史は領土争いの歴史であり、武力で勝る者が弱い者を滅ぼして領土を拡大するのが世界の歴史である。沖縄の歴史も例外ではなかった。
琉球王朝の歴史を見てみよう。
1187年頃舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年尚巴志、北山を滅ぼす
1429年尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年尚元王、奄美大島を征服。
1609年薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。


1406年に尚思紹父子が武寧を滅ぼしたという記録がある。滅ぼしたということか暴力を用いたということであり、尚巴志王は暴力を用いて三山を統一したのだ。1406年に尚思紹父子が武寧を滅ぼしたという記録がある。滅ぼしたということは暴力を用いたということであり、尚巴志王は暴力を用いて三山を統一したのだ。三山を統一して沖縄本島は琉球王朝となる。琉球王朝になるまで武器を持った戦争を繰り返したのであり、かつての琉球の人々は武器を持ち領土争いをしていたのだ。
沖縄の過去の歴史を見る限り、太田氏のいう「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」ような歴史の証拠は1187年以後にはない。太田氏は「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」というが、そんな歴史的伝統は沖縄の歴史にはなかった。

1609年に薩摩藩の支配下に置かれた後は、琉球王朝は武器を持つことを禁じられ、戦争をする能力は奪われた。そして、薩摩藩とは話し合い交渉をするようになった。もし、太田氏が琉球王朝が薩摩の植民地になった以後のことをさして、琉球の人々は武器を持たないで話し合いで解決したというのなら、それは大きな誤解である。
薩摩に支配された琉球王朝は、「武器を持たなかった」のではなく「持てなかった」のだ。そして、話し合いで琉球王朝は薩摩藩にお願いをしたのだ。

謝名 親方は薩摩藩から起請文にサインするように強制された際に「自由なくして生きるかい無し」として、ただ1人断り処刑されている。
「自由なくして生きるかい無し」と言って謝名親方が処刑されてから、琉球王朝には自由がなくなったのである。

薩摩藩の支配下になった琉球王朝は軍事力を剥奪され、戦争をする能力はうしなわれた。
太田氏のいうように「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」という歴史的な事実はないし、「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」ような歴史的な証拠もない。琉球王朝が薩摩に支配されて、弱者であるがゆえに武力を行使できなかったことを隠蔽して「伝統的な平和文化を培ってきた」と太田氏は述べているにすぎない。

沖縄の多くの政治家や知識人が、かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」というが、それは間違いなのだ。
学者でもある太田氏がなぜこんなみえみえの嘘をつくのか私は不思議でならない。
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