革新政治に捻じ曲げられた「命どぅ宝」 2


太田氏は、かつての琉球の人々は「命どぅ宝」を合言葉にして友好的共生を心掛けてきたと述べているが、かっての琉球にそのような時代があったかを検討してみる。

琉球王朝時代を大別すると薩摩藩に支配された琉球王朝時代とそれ以前の尚家が支配していた琉球王朝時代に大別される。
琉球は中山、南山、北山に分かれていたのを尚巴志王が三山を統一する。尚巴志王の年賦をウィキペティアから引用する。


尚 巴志王(しょう はしおう、1372年 - 1439年6月1日、在位1421年 - 1439年)は、尚思紹王の子で、琉球王国・第一尚氏王統第2代目の国王。初代琉球国王。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。

父・思紹、母・美里子の娘の長男として生まれる。父の思紹は、「鮫川大主(さめかわうふぬし)」ともいわれ、伊平屋島から馬天港へ渡ってきた。

21歳のとき、父の後を継いで南山の佐敷按司となる。

1406年、中山王武寧を攻撃して察度王朝を滅亡させ、首里(現在の那覇市)を首都とした。また父・尚思紹を中山王に即位させた。

1416年、北山国を討伐し、次男尚忠を北山監守として北部の抑えにした。

1421年、尚思紹の死去により中山王に即位。

1429年、南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。

在位中は首里城を拡張整備し、王城にふさわしい城とした。あわせて安国山に花木を植え、中山門を創建し外苑を整備した。また那覇港の整備を進め、中国をはじめ日本、朝鮮、南方諸国等、海外諸国との交易を盛んに行い、琉球の繁栄の基礎をもたらした。

このように尚巴志は武力で三山を統一したのであり、太田氏のいうような話し合いで物事を決める時代ではなかった。尚巴志が三山を統一した以後はどうだっただろうか。

オヤケアカハチの乱は、1500年に琉球王国石垣島大浜(現在の石垣市大浜)の豪族・オヤケアカハチが蜂起した事件で、尚真王が派遣した征討軍3,000人の軍勢によって鎮圧、首謀者のオヤケアカハチは討ち取られた。


1458年には護佐丸・阿麻和利の乱 が起こっている。

 計らずも王位継承者となり首里にやってきた尚泰久(しょう・たいきゅう)は、早速首里城の再建にとりかかりました。財政を担当したのは尚泰久のブレーンである金丸(かなまる)でした。また、仏教の発展にも力を注ぎ、このころ万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘を作らせています。
 王国の再建に取り組む尚泰久の耳に、不穏な動きがあるとの情報が入ります。中城城(なかぐすくじょう)の城主護佐丸(ごさまる)が謀反を企てているというのです。情報をもたらしたのは勝連城主阿麻和利(あまわり)でした。これは琉球王国にとっても尚泰久にとっても大事件でした。
 というのも、護佐丸は父尚巴志が北山攻略の際に一軍を率いて共に戦った功労者であり、琉球王国の用心棒とも言うべき最高実力者だったのです。しかも座喜味城主であった護佐丸を、北部勢力の脅威から王国を守るためにわざわざ中城城に居城させたのは首里王府の意向でした。護佐丸は王府に忠誠を尽くす最も信頼できる忠臣の鏡だったのです。
 一方の阿麻和利は勝連城を拠点とする按司で、貿易によって勝連を繁栄させ日増しに勢力を伸ばしてきた首里王府が最も警戒する要注意人物です。実は護佐丸を防衛線である中城城に配置したのも、阿麻和利の脅威を意識してのことでした。その阿麻和利の情報を何故尚泰久が信じたのか?そこには複雑な事情がありました。
 度重なる政権交代によって首里王府の権力は次第に弱まり、地方按司への統率力は衰えてゆきました。そして、権力基盤の衰退は志魯・布里の乱で決定的となりました。その間に地方の按司は力を蓄え、ついには護佐丸や阿麻和利のように王府にとって無視できない存在にまで成長したのです。そこで首里王府はこれらの有力按司を抑えるために彼らと婚姻関係を結ぶことで解決を図りました。尚泰久の妻は護佐丸の娘であり、阿麻和利の妻は尚泰久の娘でした。つまり、尚泰久にとって護佐丸は義父、阿麻和利は娘婿になります。
 ですから、忠臣護佐丸は安心で阿麻和利は危険、という単純な構図ではなかったのです。首里王府にとってはどちらも勢力を拡大してきた警戒すべき相手だったのかもしれません。しかもこの情報を確かめるために遣わされた王府の密偵は、兵馬の訓練をする中城城の様子を目撃します。
 そして尚泰久は護佐丸を討伐する決断をします。王府軍を任されたのは誰あろう阿麻和利でした。阿麻和利は王府の大軍を率いて中城城に向かいました。謀反の疑いをかけられた護佐丸は真意を試されることになりました。はたして護佐丸は王府軍に立ち向かうことなく無抵抗で落城、一族と共に自刃しました。尚巴志と共に琉球統一を成し遂げ、最後まで首里王府に反旗を翻さなかった護佐丸は、今も忠臣として語り継がれています。
 王府の力を借りて見事宿敵護佐丸を亡き者にした阿麻和利の次のターゲットは首里でした。計画は阿麻和利の目論見どおり進んでいました。しかし、ここで一つの誤算が生まれます。もともと政略結婚で嫁いできた尚泰久の娘百度踏揚(ももとふみあがり)と付き人の大城賢雄(うふぐすくけんゆう)がこの策略に気付き、勝連城を抜け出したのです。行き先はもちろん父尚泰久のいる首里城です。
 これを知った阿麻和利は策略の発覚を悟り、急遽兵を率いて首里へと向かいます。一足先に首里に到着した百度踏揚たちの報告で王府はあわてて防衛の準備をし、阿麻和利軍に立ち向かいます。最初は防戦を強いられた王府軍でしたが、次第に劣勢を挽回しました。首里城を攻め落とすことをあきらめた阿麻和利は勝連城にもどり篭城します。
 首里王府は体制を立て直し、阿麻和利討伐軍を勝連城に向かわせます。軍を率いたのは大城賢雄でした。勝連城は勝連半島の根元に位置する小高い山の頂上にそびえる難攻不落の城でしたが、奇策を用いて大城賢雄が勝利し阿麻和利と勝連城は滅亡しました。1458年のことでした。
 こうして首里王府は琉球王国最大の危機を脱しました。王府を脅かす二大勢力を一気に排除することに成功したのです。これら一連の事件が偶然だったのか、あるいは首里王府の計略だったのか、その真相を知る者は誰もいません。
(ネットサイト「沖縄の世界遺産」から引用。)

薩摩支配以前の琉球は武力で覇を競い、武力で勝る者ものが国を制したのだ。このあと琉球王朝は武力で奄美も支配した。薩摩藩に支配される前の琉球王朝時代も武力で支配する社会であり、太田氏のいう「命どぅ宝」の精神とはほど遠い時代だったのである。


1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属させ、琉球の石高12万石を加えられた。奄美群島は琉球と分離され、薩摩藩が直接支配した。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球王国を窓口にした中国との貿易が利益をもたらした。また、薩摩には奄美産の砂糖による利益がもたらされた。(ウィキペティアから引用)

薩摩に支配された後の琉球王朝は当然のことながら武器を持つことを禁じられ戦争をする能力を失う。琉球王朝が自ら平和主義になったわけではない。薩摩藩に上納したのは中国から輸入したものだけではない。琉球絣や陶器等の琉球の名産も上納した。琉球王朝が薩摩藩に支配されるようになると、琉球王朝と薩摩藩の二重の搾取により琉球の民はますます苦しい生活を強いられた。

以上のように、琉球王朝時代には薩摩藩支配の以前も以後も、太田氏のいう、「いかなる武器も持たず。戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに解決する伝統的な平和文化を培ってきた」ことはなかった。

封建時代は武力を用いた戦争で領土を奪い合いをする武力支配の時代であり、太田氏のいう平和主義であるはずがない。

このように、「命どぅ宝」の格言が平和主義の象徴として語られたことは琉球王朝時代から戦前までなかったことが明らかになった。

「命どぅ宝」が反戦・平和の格言として流布されるようになった発端は、1968年11月に嘉手納基地で発生したB52墜落事故をきっかけに結成された「命を守る県民共闘会議」のキャッチフレーズとして使われるようになったてからである。

はっきりとは覚えていないが、「命を守る県民共闘会議」による与儀公園の県民大会で瀬長亀次郎氏の演説で聞いた記憶がある。その時が、「命どぅ宝」が反戦平和のキャッチフレーズとして使われた最初であったと思う。若い私は反戦平和のキャッチフレーズとして「命どぅ宝」が使われたことに愕然した。

「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」は私にとっては反戦・平和よりももっと深くて重い格言だったからである。
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