2013=平成25年9月も、宜しくお願い致します。
今日9/1は「防災の日」。我国内各地にて地震を初めとする防災訓練が実施され、安倍内閣総理大臣以下主要閣僚も、首都圏にての訓練に赴かれた様だ。政官界トップも、霞が関や永田町の建物の中ばかりに籠らず、こうした訓練行事はもっと積極的に視察を願いたい所。実態を知らない事には、「その時」が来た時に、適切な指揮命令もできないだろうから。
この防災の問題につき、今朝の拙地元紙C新聞社説に、先の東日本大震災の回顧に関連して、古(いにしえ)の時代に生じた災害をも含めて振り返ると共に、それらの事より、現代社会が同様の事態に見舞われた場合を想像する事と、その時に際して各々がどう動くべきか、世間に対し何ができるかを普段より考えておく事の大切さが主張されていた。基本はその通りだと思う。「最大級の震災」は、津波被害の大きさなどをも含めると、考えたくはないが、敢えてそうした事共を想像する事で、防災に関する新たな思考やアイデアが生まれて来る可能性も高い。かつての戦争を考える場合でもそうだが「二度とあって欲しくない」風では通らないのではないか。我々日本人は、これからも、高い可能性にて大地震が生じるだろう国土に暮らしているのだから。
防災もそうだが、防犯についてもかなりの所で同様の事が言えるのではないか。先月下旬、当地西隣の三重県下にて、四日市港の花火大会見物の女子中学生が、帰途殺害され金品を収奪される凄惨な事件があった。被害者には心よりの弔意を表すと共に、早い犯人確保を強く求めたいのは当然だが、(本当はこう申したくはないのだが)被害者側にも若干の油断あった印象が拭えないのだ。毎度の事ながら、凶悪事件以外でも、犯人共は、そうした僅かな隙を突いて悪事に及ぶのだ。
被害者宅より、最寄りの鉄道線駅との距離は約1km半。強歩でも20分は要するであろう。加えて事件発生はほぼ深夜帯で、道中は街灯も少ないほぼ真っ暗な道だったと言う。この様な状況下を、最も事件事故に巻き込まれ易い女子小中高生が単独で出歩く事自体が問題ではないのか。全く「己だけは大丈夫」との不良思考に陥っている節がある。
想えば、今夏西日本にて生じた女子専門学校生殺害事件も、形こそ違え、時間的には近い所であった。もう少し警戒心を高め、慣れた所でも暗い所では何が起きるか分らない、位の意識を強く持ち、家人に迎えに来てもらうか、それができなければある程度の出費を要しても、タクシーなどの交通手段を利用すべきだったのではないか。その時は金がかかっても、命の安全には替えられないのである。又、事前に不審者出没情報が複数寄せられていながら、全く生かされなかったのも遺憾。本当に「水と安全はタダではない」重い事実を、改めて思い知らされる事件である。こうした事件を教訓に、これからの防犯教育は、此度の様な悲惨な事例と正面より向き合い、再発の防止へ向けなすべき事、できる事、してはならない事などを具体的に学べる様にすべきだし、印象の悪さを理由にそれを妨げようとする全教や日教組などの左傾勢力やメディアなどの不良意図は、強く挫かれなければならない。と、同時に、これらの勢力が折々吹聴する「自分だけは大丈夫」との安易な思潮に嵌らない心がけも必要だろう。
さて、防災防犯と共に、我国の安全保障にしても、「当たらずと言えども遠からじ」と言う所ではないだろうか。先頃行われた、我が自衛隊の、米合衆国軍と連携しての島嶼(とうしょ)保全の為の訓練は、ここ数年 沖縄・尖閣諸島の中国大陸との軋轢や、未だ解決の見えない北方領土の件などを考えれば概ね適切な活動であろう。又、政権党にては、外交安保を中心に、特定機密を保護する法制の具体化が進んでいる様だが、これも我国の国民市民の幸せに繋がる「真の国益」に沿う形となる様進めて頂きたい。諸外国の例にもある様だが、時に、国の安全や差し迫った国益に関わる機密は、国民市民の「知る権利」とは切り離して考えられなければならない所あるのも事実だろう。
この様に、防災、防犯、そして国防も、敢えて実際に大きな問題が生じた場合を想像し、それに際して自らはどうすべきか、何ができるかを正面より考える事が大切なのだろう。過日、作家 曾野綾子さんは「先の大戦は確かに凄惨だったが、私はその戦争から学んだ事も幾つかあった。そうした学びをしない者は、残念だが進歩はなかろう」とのご見解を表されたが、我々もそうした思考を良く学ぶ必要があるのだろう。