今週は受難週で、毎朝早天祈祷会がありました。『主イエスの受難と私の困難』というテーマでスタッフの先生方が順番にお話してくださいました。(めぐみ教会に6人も先生がおられることがスゴイ!)
日曜の夜はひどく疲れていて、翌日早天祈祷会に行こうという気持ちになれませんでした。月曜の夜になって、1日だけでもいいから行こうと決心し、火曜日から今日まで行き続けることができました。
明け方、寝過ごして早天に行けなかった夢を見ました。「今日で最後だったのに……。あー残念だ、あー残念だ」とひとりごとを言っている夢です。はっと気が付くと5:30分でした。
朝もやの中、満開の桜の下を自転車で走ると幻想的な気持ちになります。今朝はわりあいあたたかでしたが、昨日までは霜がおりていました。静寂の中にいると一瞬時間が止まっているのではないかと思われます。こんなに美しい花を造り、目を楽しませて下さる神さまに感謝します。
このような桜をゆっくり眺めることもできないでいる友人のことを思いました。先日友人から電話がありました。同居しているお姑さんが認知症になり、夜も眠れず、振り回されて疲れ果ててしまったという深刻な悩みを聞きました。
聖書が読めない。メッセージテープも聴けない。祈ることもできない。「どうして私がこんなに苦しまなければならないのかわからない」という言葉に慰めの言葉がみつかりませんでした。
祈ることすらできなくなってしまうほどの苦しみは、わたしも体験したことがありますが、彼女の苦しみに比べればたいしたことありません。
でも、イエスさまの苦難は、彼女の苦難よりはるかに大きかったのです。イエスさまは神であると同時に人でもあります。今日は人としてのイエスさまの苦難について語られました。
3年も一緒にいた愛弟子ユダに裏切られた苦しみ。不法な裁判が行われ、無実なのに有罪判決を言い渡された苦しみ。公衆の面前で平手で打たれ、ののしられ、ムチ打たれ、十字架につけられるという不法な刑罰を受けた苦しみ。
このような苦しみにあったナザレのイエスの思いはどんなものだったでしょう?
S先生が苦難の中にあったとき、先輩から「男は大病と左遷と投獄によって本物の男になる」と言われ慰められたそうです。病気することによって肉体の限界を知り、左遷によって理不尽な取り扱いを経験し、投獄で自由を拘束されることにより本物の男というより、本来の人間になるということでしょう。
「男は」だけでは不公平だと思い、女の場合を考えました。
「女は大病と友人の裏切りと家族の苦難によって本物の女になる」
苦難の中にある友に神さまからの慰めがありますように。