生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

見捨てられたと思っても

2016-04-22 16:44:19 | 教会
水曜礼拝では旧約聖書の士師記を学んでいます。

士師記にはヨシュアからサムエルが生まれるまでの約200年のイスラエルの歴史が書かれています。

旧酌聖書にはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフのことが書かれ、エジプトから出るときは、モーセという偉大な指導者がたてられました。ヨシュアは

モーセの後継者として活躍したのですが、ヨシュアの後継者はたてられませんでした。

ヨシュアの後、サムソン、ギデオンなど12人の士師が登場しますが、彼らが死んでしまうと、イスラエルの民は罪を犯してしまいます。

士師記には「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師記21:25)」と、書かれています
(士師とは、その時代に神様が遣わされた軍事的、政治的指導者のことです。)

なぜ神様はヨシュアの後継者をたてなかったのでしょう。イスラエルの民は、ヨシュアが死ぬとすぐに主を捨て、バアルというカナンで信仰されている神に仕えるようになりました。

神様はそんな彼らをどうしたでしょう。やさしく「いいよ」と言ってくださってでしょうか……あるいは、ヨシュアのような指導者をたててバアルを拝むのをやめるように言わせたでしょうか。どちらでもありませんでした。
神様は怒り、民を略奪隊に渡し、捨て置かれたのです。

赦しの神、愛といつくしみに満ちた神、のはずなのに何故?と思いますね。旧約聖書の神は恐ろしい神で、新約聖書の神は愛の神と思っている人がいますが、本当のところはどうなのでしょう。

「神様は100%愛の神で、100%義の神です」と牧師先生が言われました。
神様が怒ったのは正しいことなのです。義なる神だから、罪を犯した民をそのままで赦すことはできないのです。神様は民をとりもどすためにあえて捨て置かれたのです。

アダムとエバが罪を犯したとき、神様はエデンの園から彼らを追放しました。
でも、そのときからイエス・キリストによって人々の罪が赦されることになるという計画をたてておられました。

神様がイエス様が十字架上で死ぬのを見過ごされたのは、民を、わたしたちを、救うためだったのです。

神様に見捨てられたと思うようなことがあるでしょう。でもそれは神様の愛のゆえです。神様の人類救済計画はすでに実行されたのです。だから、見捨てられることは決してないのです。



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