日曜日に教会でケニアの宣教師のI先生のお話を聞きました。
I先生は
「人生には二通りの生き方があります。『奇跡など、どこにもない』という生き方と、『すべては奇跡だ』という生き方です。」と言われました。
かつてわたしは奇跡を信じていませんでした。聖書を読み始めた時も、奇跡のところは、神話のように捉えていました。海がふたつに分かれるとか、天からマナ(食べ物)が降ってくるとか、処女降誕やキリストの復活……。
どれも実際に起きたこととは思えませんでした。
あるとき、神様は何もないところから天と地を創造されたのだから、人にはできないことでも、神様なら当たり前のようにできるのではないかと思いました。そのとき、ストンと心に何かが落ちてきたようで、奇跡のすべてを信じられるようになりました。
それでも、聖書の出来事はずっと昔に起きたことです。現在、自分のまわりで起きることはないだろうと、そのように考えていました。
でも、今は違います。奇跡としか思えないようなこと、神様が介入してくださったとしか思えないことを体験していったからです。
ケニアでは、コイノニア教育センターに来た子ども達のうえに奇跡が起こりました。
ケニアのスラムには、貧困があり、売春があり、感染症などの病気があり。上下水道もなく、汚物とゴミで溢れた道路、子どもたちは裸足で汚れきっていたそうです。
子どもたちは生きるために嘘をついたり、悪に染まっていました。「あなたは、かけがえのない人なんだよ」と言ってくれる人がなく、子どもたちの心はすさんでいました。
そのような子どもたちがコイノニア教育センターに来て、少しずつ変化していったそうです。
子どもたちの可能性を信じて待ち望み、モーセの手をアロンとフルが支えたように神の霊により、子どもたちを支えた結果、子どもたちは変わりました。新しく来た子どもたちのリーダーになったり、スラムに行ってキリストの愛を伝えるようになったそうです。
「希望というものは、うずくまったトラのようなもの」という神学者のエーリッヒフロムの言葉が紹介されました。
希望はうずくまった虎のようなもので、まだ生まれてこないものを信じて待って備えることです。子どもの中にある可能性を信じて耐え、支えていくという教育が子どもたちの人生に奇跡をもたらしたのです。
母はまだ入院中です。鼻からチューブで食事をとり、24時間点滴もしていますが、トイレに歩いて行けるようになりました。看護学生さんに洗髪や足湯をしていただいて喜んでいます。
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