昨日はヒックンが来て、イチゴ狩りとフラワーパークに行ってきました。
あらかじめインターネットでイチゴ狩りのできるところを調べていました。
ところが、予約を入れてなかったので、調べていた2か所とも満員で入れませんでした。
「フラワーパークの近くにイチゴ狩りできるところがあったんじゃないか」
主人に言われて、子どもたちが小さかった時、イチゴ狩りに行ったときのことを思い出しました。
「でも、あれから20年もたっているのよ。まだあるのかしら?」
「とにかく行って見よう」
行くと、ビニールハウスが見えてきました。土浦に越してきたばかりのころ訪れた場所です。息子7歳、娘は4歳でした。
そのとき娘はイチゴを食べすぎて気持ち悪くなり、それからイチゴが嫌いになってしまったのです。(いまだにイチゴ嫌いです)
店で尋ねるとイチゴ狩りできるというので、大喜びでハウスに入りました。HPで紹介されてないせいか、すいていてよかったです。
ところがヒックンはイチゴをなめるだけで食べません。
「イチゴ、きらいなんです」とヒックンママ。イチゴ嫌いは叔母さんからの遺伝?
ヒックンはひとつも口に入れないで、イチゴを眺めながらハウスの中を楽しそうに歩きまわっていました。
それにしてもあのとき、20年後に孫を連れてくることになると誰が想像したでしょうか?
不思議な気持ちがしました。
土浦に越してきて20年になりますが、あのころはとてもつらい時期でした。新しい土地に慣れなくて、教会にもなじめなくて、以前住んでいた久喜(埼玉県)がなつかしく、振り返ってばかりいました。
久喜の友人に久喜に戻りたいというようなことを手紙に書いて出すと、「置かれたところで咲く」という詩を紹介して下さいました。
「置かれたところで咲く」
神が置いてくださったところで咲きなさい。
しかたがないと諦めてでなく
「咲く」のです。
「咲く」ということは
自分が幸せに生き
他人も幸せにするということです。
「咲く」ということは
周囲の人々に あなたの笑顔が
私は幸せなのだということを
示して生きるということなのです。
“神が私をここに置いてくださった
それはすばらしいことであり
ありがたいことだ”
あなたのすべてが
語っていることなのです。
「咲く」ということは
他の人の求めに喜んで応じ
自分にとって ありがたくない人にも
決していやな顔 退屈気な態度を
見せないで生きるということなのです。
先日の礼拝では「植え替えられる」という言葉が語られました。キリストを信じたとき、神の国の国民として神様に植え替えられたのです。神様から選ばれて送り出されてこの場所にいるのです。
なぜ選ばれたか理由はわからなくても、神様の計画と考えの中に置かれていること覚えるように。新しい視点にたつことが大切です。というメッセージを聞きました。
わたしは、土浦に植えられて20年たちました。いつかはこの地を離れますが、今この地でせいいっぱい咲かせていただきたいです。