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水原紫苑氏、原発事故を語る

  今日の神奈川新聞第6面の「意見提言」に、歌人の水原紫苑氏が書いたこの度の原発事故のついての短文が掲載されていた。氏は冒頭「本当に言葉がない」と記している。言葉の世界に生きる氏をして言葉がないのだと云う。

 

 氏は続けてこう書いている。「ただ、たしかなことは、地震・津波・原発事故と続いたこのたびの災厄のうち、原発については、首都圏に住む私たちにも、大きな責任があるという事実である。福島第一原発でつくられた電気は、遠く離れた首都圏の私たちが、一方的に享受してきたものではないか」と。更に「今、いわば加害者のひとりとして、わたしはこうべを垂れる」と続く。

 

 まるで郷秋<Gauche>が14日に書いた「誰のための原発なのか、考えてみて欲しい」を読んでから書かれたかのような文章であるが、そんなことは、ないだろう。件の原発が東京電力の持ち物であることに気が付きさえすれば、そして少しばかりの想像力を働かせさえすれば、首都圏人の過剰なまでに便利で快適な生活の「ツケ」が福島県民に回った事実に気が付くはずである。多くの首都圏人はその事実に気づかぬ振りをし、あるいはその事について深く考えることを避けているだけのである。

 

 14日に郷秋<Gauche>が書かなかったことをも水原氏は書いている。それは「原発が、本当に安全なのであれば、東京に造るべきであった」と。福島に造る時のことだったのか、あるいは柏崎の時の事だったのが正確な記憶がないが、東電側の「絶対に安全である」との説明に対する「なら、東京湾に造れば良いではないか」と云う地元民の反論に、東電のお偉いさんは反論できなかったと郷秋<Gauche>も聞いたことがある。

 

 14日に郷秋<Gauche>が書かなかったもう一つの事実をここに書いておきたい。

 

 それは、原発あるいは使用済み核燃料処理施設など広く原発関連施設が立地すれば、膨大な補助金が地元に落ちると云う事実、産業らしい産業もなかった寒村に一大雇用が生じると云う事実である。それは「ないはず」のリスクに裏打ちされたメリット。あるいは考えないことにhしていたリスクの上に成り立ったメリットである。一度リスクが現実のものとなれば、補助金も雇用もたちどころに消え去ってしまうことを覚悟で、あるいはそのようなことは起こるはずもないと自らに云い聞かせて、行政と地元住民は原発を受け入れたのである。

 

 果たして受け入れたのが、人の顔が見えてこない「行政」なのか、あるいはこれまた個人の顔が見えてこない「地元住民」なのかはわからないが、恐らくは双方である。リスクが現実のものとなった今、互いにその責任をなすり付け合うことになるのかも知れないが、現実にはそんななすり合いをしている間もない程の厳しい避難生活、行政は行政で避難生活を支援することで手いっぱいなのである。

 

 14日には、果たしてどれ程の共感を得られものか恐々として書いた「首都圏住民加害者、福島県民被害者論」であるが、少なくとも一人、水原紫苑氏がまったく同じ考えを持たれていることを知り安堵した郷秋<Gauche>である。

 

 最後に、氏が今回の事故を思い詠んだ歌が掲載されていたのでここに転載する。

 

原子の火に焼かれし唯一の国としてかくも畏れ(おそれ)を知らざりしわれら

 凶事(まがごと)はわれらすべての負うものぞ殊(こと)にも電気をもてあそびしわれら

 

 

 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、「小さなシャベルで一心に竹の子を掘る図」。この写真だけを見るといかにも唐突な一枚ですが、こちらをご覧いただいた後ならば、その必然性をご理解いただけるものと思います。

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