アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

コネチカットから来た夫婦

2018-03-29 21:47:38 | 創作
          コネチカットから来た夫婦

 199x年の夏、ぼくは休暇をとってバーモントの湖畔にある小さなベッド・アンド・ブレックファストに投宿した。それはひとり者の気ままな旅で、休暇の最初の頃は愉しさで夢見心地だったけれども、一週間を過ぎる頃には人恋しさで気分が滅入ってきた。バベル夫妻に出会ったのはそんな時だ。朝食のエッグ・ベネディクトを食べている時、社交好きの宿の主人が食堂に入ってきて、ぼくと夫妻を引き合わせた。バベル夫妻は、自分たちはコネチカットから来たと言った。

 正直言って、それまでこれほど不釣り合いなカップルを見たことがなかった。税理士だというバベル氏は皺のよった背広を鎧のように身にまとい、黄ばんだ壁紙みたいな顔色で、額から頭のてっぺんにかけて綿毛のようなものだけを残して禿げあがり、不自然に足が短く、貧弱な肩が尖っていた。貧相な中年男を絵に描いたらこうなる、という感じだ。ところが彼に寄り添うローラの方は1940年代のハリウッド女優さながらのあでやかな美貌で、人によってはグレタ・ガルボとジョーン・フォンテーンを足して二で割った容姿だと言うだろう。歳は30をちょっと出たぐらいで、夫より20センチは背が高く、笑うとはしばみ色の瞳が濡れたように輝いた。これを見て、世界から重力が消え失せた心もちにならない男はいない。

 その日ぼくたちは一緒にりんご園に出かけた。午後は三人で小さな城壁に囲まれた庭園を散策し、目抜き通りのカフェでコーヒーを飲んだ。夕方ホテルに戻る頃には、すっかり打ち解けた仲になっていた。それで分かったのは、二人がその不釣り合いな外見にもかかわらず稀に見る仲睦まじい夫婦ということだ。仲睦まじいどころか、まるで昨日恋に落ちたばかりのはたちの恋人同士か、あるいは鳥籠の中のひとつがいのラブバードのように、人目をはばかることもなく一途な情熱を傾けて愛し合っていた。これは奇跡的なことだ、とぼくは思った。その日一日ローラの美貌に頭がくらくらしていたぼくが、しなびた野菜を思わせるバベル氏に嫉妬を感じなかったと言えば嘘になる。

 その夜、ぼくが自分の部屋でひとり思いをめぐらしていると、赤ワインの壜を持ってバベル氏がやってきた。明日はもう発つ予定だという。ぼくたちは友情と出会いに乾杯したが、その後彼の話しぶりが、ありきたりの社交的な調子から親密なものへとすみやかに移行するのが分かった。あなたは信頼できる人です、と彼は言った。あなたはあの美しいローラと私が、あまりに不釣り合いなことに驚かれたでしょう、そして私たちが一体どういうなりゆきで夫婦になったのかと不思議に思われたことでしょう。いえ、否定なさるには及びません、誰よりもその不思議に驚いているのはこの私なのですから。それが告白の始まりだった。その後1時間ほどかかった彼の話をまとめると、およそ次のようになる。

 数年前、東海岸の大都市でさる上院議員の息子が毒殺される事件が起きた。センセーショナルなニュースが全米を駆けめぐり、警察の手で大がかりな捜査が行われた。裁判が開かれた時、被告席に座ったのは当時被害者の妻だったうら若き美貌の女性、つまりローラだった。この裁判がどれほど世間の耳目を集めたかは説明するまでもないだろう。長く痛々しい紆余曲折の後、証拠不十分でローラは無罪となった。しかし世間は彼女を運よく裁きを逃れた殺人者と見なし、彼女にドラゴン・レディーというあだ名をつけた。数々のゴシップがタブロイド紙を賑わせ、また今後も賑わせ続けるだろうことが予告された。ローラはほぼ無一文で上院議員の広壮な邸宅から追放され、逃げるように田舎へと移り住んだ。

 しかしバベル氏は彼女を一目見た時から、この女性が毒殺犯であるはずがないと信じていた。彼の目に映ったのは状況の犠牲となった気高い貴婦人、あるいは世界中の誰よりも庇護を必要とするよるべない令嬢だった。バベル氏は彼女にさまざまな寛大な援助を申し出ることで遠慮がちに自分の気持ちを伝え、一年後にプロポーズした。ローラはそれを受け入れた。

 世間の目に立たないつつましい結婚式を挙げた後、夫妻は世間をシャットアウトしてふたりだけの生活を始めた。バベル氏は彼女を掌中の宝石のように、あるいは天から降ってきた星のしずくのように慈しんだ。厳重に鍵をかった部屋にも似た閉ざされた世界の中にあって、それは幸福な日々だった。しかし、やがてその部屋の中にも暗い影がさしてくる。ある時バベル氏が体調を壊して医者にかかると、すい臓が弱っていますね、と医者が言った。症状がもっとひどかったら砒素でも飲んだのかと疑うところですよ。他愛もない軽口だったが、その時ふと、バベル氏はあの上院議員の息子も砒素で死んだことを思い出した。すぐに忘れたが、次にそのことを思い出したのは数週間後、猫の死骸を見た時だった。誰かが近所の猫に毒入りの餌を与えたのだ。犯人は見つからなかった。バベル氏はローラの前夫が殺される前にも近所の犬が毒で死んだことを思い出した。警察では、それを犯人のリハーサルだと考えていた。

 この時バベル氏の胸中に小さな疑念が生まれ、そして花壇に紛れ込んだセイタカアワダチソウのように育っていった。それは暗く固い、棘にさされたような痛みをもたらす一つの問いだった。もしかすると、猫を殺したのはローラではないだろうか?

 不安に耐えきれず、バベル氏は自衛手段をとることにした。健康のためといって週に二回医者の検診を受けることに決め、それをさりげなくローラにも伝えた。その後いったんバベル氏の体調が持ち直したのは、果たして偶然だっだのかそれとも彼女の慎重さだったのか。しかしある時、彼は決定的な光景を目撃する。深夜こっそり二階の寝室から台所に降りて行くローラの後をつけ、彼女がバベル氏のミルクに白い粉末を入れるのを見たのだ。目もくらむような衝撃とともにバベル氏はさとった。彼女がやはり前夫を毒殺した犯人だったこと、そして今や同じようにバベル氏を殺そうとしていることを。

 彼はこっそりそのミルクを捨てた。常に身近に医者を置き、口にするものには細心の注意を払うようになった。しかしすぐそばにいる伴侶が殺人者だとしたら、果たして確実に身を守る方法などあるだろうか。またそんな生活を一体いつまで続けられるものだろうか。

 バベル氏は言った。「分かっています、このままでは私はいつか、あの美しいローラに殺されるでしょう。しかし私は、今でも彼女を愛することを止めることができません。彼女なしでは一日たりとも生きていけない。彼女は私にとってこの上なき愛の対象であり、同時に恐怖の対象でもあるのです。言うなれば私は、愛と恐怖の間で引き裂かれた人生を送っているのです。どうか私を憐れんで下さい、そして同時に羨んで下さい」

 その夜、ぼくの眠りは混濁した夢にかき乱された。夢の中に、四方八方に致死性の白い糸を投げかける蜘蛛そっくりのディアナ神が現れたのだ。翌朝重い頭を抱えて目覚めた時、すでに朝食の時間は終わりかけていた。バベル夫妻がホテルを発つまで部屋に閉じこもっていようと決めて、コーヒーを淹れていると、ノックの音が聞こえた。ドアを開けると、麗しいローラがかすかな衣ずれの音とともに部屋に入ってきた。

「お別れの前に、ひとつお話があります」ローラの声には典雅な落ち着きがあり、はしばみ色の目には濡れたような光があった。「昨夜、私の夫があなたにある話をしたと思います。あの人は、新しい知り合いができると必ずその話をします。私が彼を毒殺しようとしているという話です。でも、あなたも当然お察しの通り、それは真実ではありません。神に誓って、私はあの人を殺そうなどとしていません。前の夫の死も、私のせいではありません。すべてはあの人の妄想なのです」

 彼女の声には諦念と遠慮深さが染みとおっていたが、最後の一言にかすかな懇願の響きを聞いたのはぼくの思い過ごしだっただろうか。彼女は手短かにぼくに説明した、夫を精神科の医者に診せたこと、さまざまなテストが行われ、診療が行われ、セッションが積み重ねられたことを。医者は結婚生活のストレスが原因だと言った。とりわけ、ローラがバベル氏と結婚したのは世間の迫害から守ってくれた人に対する恩義からであって愛情からではないという、バベル氏の被害妄想的な思い込みが問題なのだと。

「では、あなたがミルクに毒を入れているのを見たというのは?」
「もちろん、あの人の妄想です。結婚した当初は、彼も例の事件について私の無実を信じてくれていました。でも、その頃から心のどこかに疑念が潜んでいたのでしょう。彼が体調を壊したすぐあとに、たまたま近所の猫が死んだのがいけませんでした。あれ以来、彼の心のバランスは完全に崩れてしまったのです。彼の狂気は末期癌みたいなもので、今となっては手の施しようがありません。あの人はもう精神科の先生のところに通うのも止めてしまいました」

 言うべきことを何ひとつ思いつかないぼくが岩のような沈黙に埋もれて身動きできずにいると、彼女の顔にあるかなきかの微笑みが浮かんだ。「あなたも、他の人たちのようにこう言われるでしょうか。しかるべき人に相談して、彼をどこかの施設にでも入れるべきだと。でも私は彼と離ればなれになって生きていくことなどできません。たとえ彼が私を殺人者だと信じ、私を死神のように恐怖したとしても、私はあの人を愛することを止められません。私たちはこのまま一緒に生きていくしかないのです。だからどうか、私たちをそっとしておいて下さい。私はただ、あなたに誤解されたままお別れしたくなかっただけなのですから」

 彼女が出て行くとぼくは横になって、しばらくの間窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずりに耳を傾けていた。宿の主人がぼくを呼びに来て、バベル夫妻が最後のご挨拶をしたいそうです、と告げた。階段を下りていくと、ホテルの前の車寄せにタクシーが止まっていた。荷物の積み込みが終わったところだったが、ぼくを見てバベル氏とローラが親しげに、昨日りんご園で見せたのと同じ笑顔で笑いかけてきた。「あなたとお会いできて本当に楽しかった。また会いましょう」

 ぼくが夫妻のそれぞれと握手をすると、彼らは仲睦まじく腕を組み、ぼくには聞きとれない冗談を互いに言い合いながら、車に乗り込んだ。ぼくは手を振りながら、宿の主人と一緒に遠ざかっていくタクシーを見送った。こうしてバベル夫妻は去り、ぼくの網膜にはいくつもの満面の笑顔、打ち振られる手と手、青い空のまぶしさ、等間隔に並んだ街路樹、遠く伸びる白い道、視野をかすめて飛ぶ小鳥たち、寄り添う男女の後ろ姿、そんなめまいを誘う断片的な記憶のスナップショットだけが残された。

 ぼくはあれから長いこと、バベル氏とローラが語った話について考えている。しかしバベル氏の話が真実だったのか、ローラの話が真実だったのか、それとも真実など何もなく、ただあの二人が何か想像もできない理由で通りすがりの旅行者をからかっただけなのか、ぼくは今だに決めかねている。



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