アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

店員

2013-08-18 15:37:45 | 
『店員』 バーナード・マラマッド   ☆☆☆☆★

 マラマッドの長編を読了。邦訳は30年近く絶版になっていたらしい。確かに、小説としてのケレン味には欠ける。テーマも設定もストーリー展開もきわめて地味だ。が、噛み締める苦味の中からしみじみとペーソスが香り立つ、この味の深さは決して侮れない。

 舞台はニューヨークのユダヤ人地区にある、小さな、昔ながらの食料品店。営むのはモリス・ボーバーと妻アイダ。夫婦にはヘレンという一人娘がいる。商売はうまくいっていない。近所にあるモダンな食料品店にすっかり客を取られ、いつも閑古鳥が鳴いている。いつまでやっていけるか、一家に将来はあるのか、今のうちに店を売り払ってしまった方が良くはないか、モリスが悩まない日は一日もない。おまけに商品をくすねられ、強盗に入られ、怪我をしたモリスは入院する羽目になる。泣き面に蜂とはこのことだ。そんな一家の前に、よそ者のイタリア人青年フランクが現れる。ホームレスでいつも腹ペコながら、どこか気のいいフランクはボーバーの店で低賃金で働き始める。こうして「店員」となったフランクに、モリスは好感を持ち、アイダは警戒し、ヘレンは我関せずを貫く。しかしフランクには、ボーバー一家に隠しているある秘密があった…。

 本書を読んでいて、そういえばかつて「文学」とは人間の苦しみを描くものだったなあ、というなつかしくも新鮮な感覚を味わった。これはまさに苦しみについての物語である。モリス、ヘレン、アイダ、そしてフランク、彼らはみな苦しみ続ける。それは直接的には貧困、そして生活苦だが、その底にあるのは、自分の人生には意味がない、あるいは自分は人生を浪費している、あるいは自分は何をやってもうまくいかない、というきわめて普遍的かつ人間的な苦しみである。若いヘレンは自分に未来がないことに苦しみ、年老いたモリスは親として娘ヘレンに幸福をあげられないことに苦しむ。

 そしてフランク。ユダヤ人地区にあって彼は異邦人であり、そこに属さない人間である。ボーバー一家とどれほど近しくなっても、彼とユダヤ人一家の間には画然とした一線が引かれている。また彼は良い青年に見えるし、実際ボーバー一家の助けになるのだが、実は不誠実なところもある、と言って悪ければ誘惑に弱い人間でもある。一面的ではない、複雑なキャラクターだ。彼の中では誠実と不誠実がせめぎあい、善をなそうと努めながらたびたび誘惑に屈してしまう。彼は常に自分と戦っている。読者はその戦いをつぶさに見せられることになるが、そこにはどことなく絶望の色が漂っている。かっこよく前向きな戦いでは決してなく、非常に痛々しく、情けない戦いだ。そしてこの小説はその痛々しい葛藤の果てに、それだけでは苦しみが足りないとでもいうかのように、最悪のめぐり合わせを準備している。

 フランクだけではない、この物語の中では誰もがニ面性を持っている。アイダも、ヘレンも、モリスも。その一様でない人物造形と決して止むことのない葛藤が、この小説の深みと滋味の源泉である。単純なヒールもいないし、単純な善人もいない。しかしこの物語の中で誰よりも苦しみ、しかし自分なりの矜持を持ち続ける人間は、夫であり父親であるモリス・ボーバーだろう。どんなに自分が貧乏しても、彼は人に親切にすることをやめない。決して聖人ではない彼は、他人を羨んだり憎んだり、邪心を抱いたりやけになったりしながらも、結果的には自分の良心に従う道を選ぶ。彼は貧しく、その人生は苦しみばかりだ。人生の目的が「勝ち組」と呼ばれることだとするならば、彼は人生はほとんど無に等しい。しかし彼の正直で善良な生き方につきあっているうちに、読者はそこに何かしら崇高なものを感じ始める。

 本書は『怒りの葡萄』ほど社会問題告発型の小説ではなく、またそこまでスケール感のある物語ではないけれども、貧しい人々の苦しみと矜持を崇高さとともに描き出したという意味で、どこか共通するものを感じる。ただし、本書はスタインベックの名作よりぐっと地味である。現代文学を読みなれた読者にとっては派手さに欠ける、こじんまりした小説、ひょっとすると古めかしい小説に思えるかも知れない。が、苦しみと人生について語り、それを詩に変えるという文芸本来の醍醐味がここにはある。小粒ながら、馥郁たる香りを放つ文学作品である。




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