『流れる』 幸田文 ☆☆☆☆☆
成瀬巳喜男監督の名作『流れる』の原作はどんなだろうと思って読んでみた。幸田文は明治の文豪・幸田露伴の息女である。この人の小説を読むのは初めてだったが、素晴らしく面白い。日本ならではというか、翻訳文学とはまったく違う感性と思考回路で書かれた文体、そして小説がここにある。どちらかというと翻訳文学を読み慣れている私にとっては色んな意味で刺激的、かつ啓発的な読書体験だった。やはり日本文学の名作といわれるものは読まないといけないなあ。
文体のリズムや比喩の使い方がまったく違うという以前に、小説で表現すべきものは何かという根っこの意識から違うように感じる。この小説は芸者屋の話なのだけれども、この業界の人々を「くろうと」、業界外の人々を「しろうと」と呼び、この「くろうと」と「しろうと」の世界の違いが主要なテーマの一つとなっている。が、その違いをたとえばエッセー風に考察して、理知的に分析して述べるということはしない。そうではなく、それぞれの世界の肌感覚の違いを、日常の中のふとしたことに絡めてじわりと滲み出させていく。具体的には、貧乏というもの、着物というもの、三味線というもの、家(=芸者屋のこと)の格というもの、贈答品というもの、女中の立ち位置というもの、人品というもの、芸者の器量というもの、などについてだが、あくまで直観的な印象のようなものとしてさらりと文章に紛れ込ませ、そのまま通り過ぎていく。ロジカルではない直観や印象をロジカルに分析・体系化することなく、そのまま感覚として文章にしていく感じだ。
そしてその手並みが、実にうまい。ロジカルに説明しないことでかえって雄弁に、豊穣になっている。隠すことによってより美しく匂い立つ。ああ日本の感性ってこうだなあ、とあらためて教えられる思いだ。それは世界の成り立ちを分析せず直観すること、玄妙な仕組みを思想や理論でなく詩と霊感によって悟ることに近い。そして当然ながら、それらがただ筋を追う面白さだけではない、作品世界の奥行きと膨らみを作り出していく。もちろんこれはコトバを駆使する小説でなければできない技であり、先に書いた「小説で表現すべきものとは何かという根っこの意識」とはこれのことである。
従って、成瀬監督の映画とはかなり異なる印象を受ける。大雑把にいうと、映画より原作の方がずっとアイロニカルである。映画の方が抒情的だ。たとえば原作では梨花はもっと勝気な性格で、全般に芸者屋の人々に批判的である。というか、正確には同情的と批判的が半々ぐらいなのだが、映画では終始共感的なので、批判的な部分が目立つ。映画では、実質の主人公であるつた奴(山田五十鈴)の哀れさが強調されているが、原作ではずるいところや自分勝手なところも描かれており、そもそも「主人」と呼ばれるだけで名前もない。映画では美人で聡明な勝代(高峰秀子)も原作ではブサイク、勝気でギスギスしている。子供の不二子も性格が悪くて憎たらしい。一方、なな子、染香、米子は大体映画に近いキャラだ。その他、映画で省略されていたキャラも数名登場する。
つまり、芸者屋の人々を女中の梨花の目を通して描いているのは一緒だが、原作の方がはるかに突き放して描いている。映画では重要なエピソードだったつた奴の旧恋の話も、なんとなく仄めかされるだけで出てこない。全員がアイロニックに突き放されており、だから感傷に流されない。とはいってもブラックユーモアまではいかず、さっき書いたように半分ぐらいは同情的だったりする。つまりはニュートラルであり、冷静なのである。そのバランスが見事だ。そして更に見事なのは、その感傷に流されないアイロニックな筆致の中から、くろうと衆の哀れがしみじみと立ち上ってくるところである。
ストーリー展開も細かいところで映画と異なっており、たとえば染香は喧嘩した後もう戻って来ないし、米子は奉公に出ていってしまう。結末も原作の方が容赦がない。成瀬監督は映画化にあたって、観客がつた屋の芸者たちに感情移入できるようにキャラクター造形を変化させ、アイロニーを抑え、その代わりに情感をたっぷりと注ぎ込んだのだな、ということがよく分かる。
そういう意味で映画とはかなり異なる作品世界になっているが、原作も映画もいずれ劣らぬ芸術品であることは間違いない。
成瀬巳喜男監督の名作『流れる』の原作はどんなだろうと思って読んでみた。幸田文は明治の文豪・幸田露伴の息女である。この人の小説を読むのは初めてだったが、素晴らしく面白い。日本ならではというか、翻訳文学とはまったく違う感性と思考回路で書かれた文体、そして小説がここにある。どちらかというと翻訳文学を読み慣れている私にとっては色んな意味で刺激的、かつ啓発的な読書体験だった。やはり日本文学の名作といわれるものは読まないといけないなあ。
文体のリズムや比喩の使い方がまったく違うという以前に、小説で表現すべきものは何かという根っこの意識から違うように感じる。この小説は芸者屋の話なのだけれども、この業界の人々を「くろうと」、業界外の人々を「しろうと」と呼び、この「くろうと」と「しろうと」の世界の違いが主要なテーマの一つとなっている。が、その違いをたとえばエッセー風に考察して、理知的に分析して述べるということはしない。そうではなく、それぞれの世界の肌感覚の違いを、日常の中のふとしたことに絡めてじわりと滲み出させていく。具体的には、貧乏というもの、着物というもの、三味線というもの、家(=芸者屋のこと)の格というもの、贈答品というもの、女中の立ち位置というもの、人品というもの、芸者の器量というもの、などについてだが、あくまで直観的な印象のようなものとしてさらりと文章に紛れ込ませ、そのまま通り過ぎていく。ロジカルではない直観や印象をロジカルに分析・体系化することなく、そのまま感覚として文章にしていく感じだ。
そしてその手並みが、実にうまい。ロジカルに説明しないことでかえって雄弁に、豊穣になっている。隠すことによってより美しく匂い立つ。ああ日本の感性ってこうだなあ、とあらためて教えられる思いだ。それは世界の成り立ちを分析せず直観すること、玄妙な仕組みを思想や理論でなく詩と霊感によって悟ることに近い。そして当然ながら、それらがただ筋を追う面白さだけではない、作品世界の奥行きと膨らみを作り出していく。もちろんこれはコトバを駆使する小説でなければできない技であり、先に書いた「小説で表現すべきものとは何かという根っこの意識」とはこれのことである。
従って、成瀬監督の映画とはかなり異なる印象を受ける。大雑把にいうと、映画より原作の方がずっとアイロニカルである。映画の方が抒情的だ。たとえば原作では梨花はもっと勝気な性格で、全般に芸者屋の人々に批判的である。というか、正確には同情的と批判的が半々ぐらいなのだが、映画では終始共感的なので、批判的な部分が目立つ。映画では、実質の主人公であるつた奴(山田五十鈴)の哀れさが強調されているが、原作ではずるいところや自分勝手なところも描かれており、そもそも「主人」と呼ばれるだけで名前もない。映画では美人で聡明な勝代(高峰秀子)も原作ではブサイク、勝気でギスギスしている。子供の不二子も性格が悪くて憎たらしい。一方、なな子、染香、米子は大体映画に近いキャラだ。その他、映画で省略されていたキャラも数名登場する。
つまり、芸者屋の人々を女中の梨花の目を通して描いているのは一緒だが、原作の方がはるかに突き放して描いている。映画では重要なエピソードだったつた奴の旧恋の話も、なんとなく仄めかされるだけで出てこない。全員がアイロニックに突き放されており、だから感傷に流されない。とはいってもブラックユーモアまではいかず、さっき書いたように半分ぐらいは同情的だったりする。つまりはニュートラルであり、冷静なのである。そのバランスが見事だ。そして更に見事なのは、その感傷に流されないアイロニックな筆致の中から、くろうと衆の哀れがしみじみと立ち上ってくるところである。
ストーリー展開も細かいところで映画と異なっており、たとえば染香は喧嘩した後もう戻って来ないし、米子は奉公に出ていってしまう。結末も原作の方が容赦がない。成瀬監督は映画化にあたって、観客がつた屋の芸者たちに感情移入できるようにキャラクター造形を変化させ、アイロニーを抑え、その代わりに情感をたっぷりと注ぎ込んだのだな、ということがよく分かる。
そういう意味で映画とはかなり異なる作品世界になっているが、原作も映画もいずれ劣らぬ芸術品であることは間違いない。
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