『1941年。パリの尋ね人』 パトリック・モディアノ ☆☆☆☆☆
『さびしい宝石』を再読して自分の中でモディアノ評価が更に上がったため、次に代表作と言われる『1941年。パリの尋ね人』を読んでみた。代表作と言われるのは、モディアノがノーベル文学賞を受賞した理由である「最も捉え難い人々の運命を召喚し、占領下の生活世界を明らかにした記憶の芸術に対して」の「記憶の芸術」が、つまり本書を指している(または、少なくともそう考えられる)からである。それなのに私が最初のモディアノ本として『さびしい宝石』を選んだのは二つ理由があって、一つ目は、個人的にナチスを扱った文学がいささか苦手なこと、二つ目はノンフィクションであること、である。
なぜナチスを扱った文学がいささか苦手かというと、ナチのユダヤ人虐殺が人類史上の絶対悪として言ってみれば確定しているため、小説の題材として考えた時に、真の小説が備えるべき多義性、相対主義がうまく働かないように思えるからである。たとえば、ナチのユダヤ人虐殺を扱ったもっとも素朴な小説を想像してみると、戦時中のユダヤ人一家を主人公にしてナチスの弾圧、虐殺の非人間性を描いていくようなストーリーが考えられるが、こういう小説で主人公家族にそれなりに感情移入させるように書けば、題材の圧倒的悲劇性と歴史的事実の重みによって読者は間違いなく感動するだろう。しかしそれが小説として優れているとは必ずしも言えないと思う。つまり反ナチ文学においては、メッセージがストレートになればなるほど小説は単なる告発文に近づき、小説としての多義性やポエジーは失われてしまう。だったら小説などにせず、ノンフィクションにした方がよっぽどいい。事実をもって語らしめよだ。
と書くと、本書を読まなかった二つ目の理由「ノンフィクションだから」は何なのかと言われそうだが、私は単純に芸術作品として小説を読みたかったのであり、ナチに関するノンフィクションを読みたかったわけではないのだ。私も優れたノンフィクション作品を読むのは結構好きなのだが、モディアノが優れた小説家であるならばやはりその神髄は、ノンフィクションではなく小説作品にあるはずと思ったのである。
さて、そうして読んだ『さびしい宝石』は見事な小説だった。それではというのでノンフィクションである本書を手に取ったわけだが、私が驚きとともに発見したのは、結果的にこれもまた見事な小説であったということである。ノンフィクションでありながら、同時に素晴らしい小説となっている。離れ業だ。
本書の内容を簡単に要約すると、占領下のパリで1941年に出された尋ね人の広告を見たモディアノが、この行方不明となったユダヤ人少女ドラ・ブリュデールの足跡を追う、というただそれだけである。追うといってもモディアノがフィリップ・マーロウみたいにあちこちに出かけていって調査する模様を描くわけでもなく、示されるのは調査の結果である。ドラは女学校でこんな娘だった、学校の職員はこんな風に言った、という具合に。そして重要なのは、分からない部分をモディアノが想像で補ったりしない、という点。この時からこの時まで、ドラがどこにいて何をしていたのか分からない、とモディアノは書く。あるいは、このことについてドラがどう考えていたか手掛かりはまったくない、と書く。つまり、ドラについて確かに分かった断片的な事実だけを並べた不完全な記録、それが本書である。
モディアノはただ分かったことだけを書いていくのだが、そうすることによっていくつかの興味深い特徴がこの小説にあらわれてくる。まず、分からないことの多さ自体が、読者にひとつのメッセージを発信する。ドラという少女は、歴史の中で意図的に抹消されてしまったのだ。モディアノはあちこちでこんな風に書く、もはやこの事実は永久に失われた、あるいは、私たちがこの時起きたことを知ることは決してない。これが、歴史が一人の少女に、そしてその両親に与えた仕打ちなのだ。
それからまた、ドラの人生の中の分からない部分は「開かれた」まま残り、読者の想像力を刺激する。書かれなかったドラマほど美しく、豊かなものは何もない。言ってみればアントニオ・タブッキが得意とする断片性、未完成性、仄めかしという高度な文学的詐術と同じ効果が、この小説を彩ることになる。そして当然ながら、本書はドラという少女を描きながら同時にドラの「不在」をも描き出していく。私たちはドラという少女のイメージを見るが、そのイメージは幻のようにはかない。ドラは本書の主人公であるにもかかわらず、常に「不在」であり、圧倒的な喪失感の中心に位置している。
もうひとつ重要なのは、『さびしい宝石』でも見られたモディアノの重要な特質、「逸脱」である。ドラに関する調査結果を事実のみ報告しつつ、モディアノは調査の過程で見つけた他のことへの言及もするし、また自分の想像力が色んなものへと連想を広げていくことを恐れない。本書のある章ではドラを離れて、無関係なユダヤ人男性が家族に宛てて書いた手紙が紹介されるし、また別の章ではモディアノがドラから連想した映画の話が語られる。その映画の主人公は女学生なのだが、映画は深刻なものではなく、明るいロマンティック・コメディである。その映画への言及はドラの失踪と直接関係があるわけではなく、モディアノの連想だけを介したきわめて詩的な関係しかない。こうした章が挿入されることによって、本書はただのルポルタージュを超えて「小説」になっていく。
あるいは、本書はノンフィクションとして、モディアノが調査の中で発見したものを直接的に読者に説明する章もある。しかしそんな場合でも。モディアノの小説家としての思考はロジカルというよりポエティックに読者に働きかける。たとえばモディアノは、多くのユダヤ人家族が、何も悪いことをしていないのに逮捕された家族の一員を救おうとして、警察署長宛てに送った手紙の数々を紹介する。そのすべての文面に溢れる、愛する家族を救いたいとの必死の思いを見誤ることは誰にもできない。私たちはフランス市民です、善良な市民です、あの子はまだ14歳です…。が、それらはすべて無視された。モディアノは書く。これらの手紙はその本来の受取人が一顧だにしなかったのだから、すなわち、後世の私たちに宛てられたものとなったのだ、と。
さて、最初に書いた私の感想、本書はノンフィクションでありながら同時に素晴らしい小説芸術、の意味はもはや明らかだと思う。反ナチス文学が告発文に近づき多義性を失うとの私の懸念を、本書は独創的なやり方で乗り越えている。ノンフィクションだがルポルタージュではない。ルポにしては分からない部分が多すぎ、不完全である。しかしながらその不完全性にモディアノの小説的思考が注入されることによって、通常のルポではあり得ない小説としての多義性、ポエジーを湛えることになった。結果的に、本書は『さびしい宝石』と同質の、モディアノ小説世界の特徴を明瞭に備えている。謎と、暗示と、断片性と、逸脱に満ちたテキスト。と同時に、他のどんな小説にもノンフィクション作品にも似ていない、きわめて特異な作品となっている。
つまり、本書は真の意味での、まぎれもない文学作品なのである。これならノーベル文学賞を受賞するのも当然だ。
『さびしい宝石』を再読して自分の中でモディアノ評価が更に上がったため、次に代表作と言われる『1941年。パリの尋ね人』を読んでみた。代表作と言われるのは、モディアノがノーベル文学賞を受賞した理由である「最も捉え難い人々の運命を召喚し、占領下の生活世界を明らかにした記憶の芸術に対して」の「記憶の芸術」が、つまり本書を指している(または、少なくともそう考えられる)からである。それなのに私が最初のモディアノ本として『さびしい宝石』を選んだのは二つ理由があって、一つ目は、個人的にナチスを扱った文学がいささか苦手なこと、二つ目はノンフィクションであること、である。
なぜナチスを扱った文学がいささか苦手かというと、ナチのユダヤ人虐殺が人類史上の絶対悪として言ってみれば確定しているため、小説の題材として考えた時に、真の小説が備えるべき多義性、相対主義がうまく働かないように思えるからである。たとえば、ナチのユダヤ人虐殺を扱ったもっとも素朴な小説を想像してみると、戦時中のユダヤ人一家を主人公にしてナチスの弾圧、虐殺の非人間性を描いていくようなストーリーが考えられるが、こういう小説で主人公家族にそれなりに感情移入させるように書けば、題材の圧倒的悲劇性と歴史的事実の重みによって読者は間違いなく感動するだろう。しかしそれが小説として優れているとは必ずしも言えないと思う。つまり反ナチ文学においては、メッセージがストレートになればなるほど小説は単なる告発文に近づき、小説としての多義性やポエジーは失われてしまう。だったら小説などにせず、ノンフィクションにした方がよっぽどいい。事実をもって語らしめよだ。
と書くと、本書を読まなかった二つ目の理由「ノンフィクションだから」は何なのかと言われそうだが、私は単純に芸術作品として小説を読みたかったのであり、ナチに関するノンフィクションを読みたかったわけではないのだ。私も優れたノンフィクション作品を読むのは結構好きなのだが、モディアノが優れた小説家であるならばやはりその神髄は、ノンフィクションではなく小説作品にあるはずと思ったのである。
さて、そうして読んだ『さびしい宝石』は見事な小説だった。それではというのでノンフィクションである本書を手に取ったわけだが、私が驚きとともに発見したのは、結果的にこれもまた見事な小説であったということである。ノンフィクションでありながら、同時に素晴らしい小説となっている。離れ業だ。
本書の内容を簡単に要約すると、占領下のパリで1941年に出された尋ね人の広告を見たモディアノが、この行方不明となったユダヤ人少女ドラ・ブリュデールの足跡を追う、というただそれだけである。追うといってもモディアノがフィリップ・マーロウみたいにあちこちに出かけていって調査する模様を描くわけでもなく、示されるのは調査の結果である。ドラは女学校でこんな娘だった、学校の職員はこんな風に言った、という具合に。そして重要なのは、分からない部分をモディアノが想像で補ったりしない、という点。この時からこの時まで、ドラがどこにいて何をしていたのか分からない、とモディアノは書く。あるいは、このことについてドラがどう考えていたか手掛かりはまったくない、と書く。つまり、ドラについて確かに分かった断片的な事実だけを並べた不完全な記録、それが本書である。
モディアノはただ分かったことだけを書いていくのだが、そうすることによっていくつかの興味深い特徴がこの小説にあらわれてくる。まず、分からないことの多さ自体が、読者にひとつのメッセージを発信する。ドラという少女は、歴史の中で意図的に抹消されてしまったのだ。モディアノはあちこちでこんな風に書く、もはやこの事実は永久に失われた、あるいは、私たちがこの時起きたことを知ることは決してない。これが、歴史が一人の少女に、そしてその両親に与えた仕打ちなのだ。
それからまた、ドラの人生の中の分からない部分は「開かれた」まま残り、読者の想像力を刺激する。書かれなかったドラマほど美しく、豊かなものは何もない。言ってみればアントニオ・タブッキが得意とする断片性、未完成性、仄めかしという高度な文学的詐術と同じ効果が、この小説を彩ることになる。そして当然ながら、本書はドラという少女を描きながら同時にドラの「不在」をも描き出していく。私たちはドラという少女のイメージを見るが、そのイメージは幻のようにはかない。ドラは本書の主人公であるにもかかわらず、常に「不在」であり、圧倒的な喪失感の中心に位置している。
もうひとつ重要なのは、『さびしい宝石』でも見られたモディアノの重要な特質、「逸脱」である。ドラに関する調査結果を事実のみ報告しつつ、モディアノは調査の過程で見つけた他のことへの言及もするし、また自分の想像力が色んなものへと連想を広げていくことを恐れない。本書のある章ではドラを離れて、無関係なユダヤ人男性が家族に宛てて書いた手紙が紹介されるし、また別の章ではモディアノがドラから連想した映画の話が語られる。その映画の主人公は女学生なのだが、映画は深刻なものではなく、明るいロマンティック・コメディである。その映画への言及はドラの失踪と直接関係があるわけではなく、モディアノの連想だけを介したきわめて詩的な関係しかない。こうした章が挿入されることによって、本書はただのルポルタージュを超えて「小説」になっていく。
あるいは、本書はノンフィクションとして、モディアノが調査の中で発見したものを直接的に読者に説明する章もある。しかしそんな場合でも。モディアノの小説家としての思考はロジカルというよりポエティックに読者に働きかける。たとえばモディアノは、多くのユダヤ人家族が、何も悪いことをしていないのに逮捕された家族の一員を救おうとして、警察署長宛てに送った手紙の数々を紹介する。そのすべての文面に溢れる、愛する家族を救いたいとの必死の思いを見誤ることは誰にもできない。私たちはフランス市民です、善良な市民です、あの子はまだ14歳です…。が、それらはすべて無視された。モディアノは書く。これらの手紙はその本来の受取人が一顧だにしなかったのだから、すなわち、後世の私たちに宛てられたものとなったのだ、と。
さて、最初に書いた私の感想、本書はノンフィクションでありながら同時に素晴らしい小説芸術、の意味はもはや明らかだと思う。反ナチス文学が告発文に近づき多義性を失うとの私の懸念を、本書は独創的なやり方で乗り越えている。ノンフィクションだがルポルタージュではない。ルポにしては分からない部分が多すぎ、不完全である。しかしながらその不完全性にモディアノの小説的思考が注入されることによって、通常のルポではあり得ない小説としての多義性、ポエジーを湛えることになった。結果的に、本書は『さびしい宝石』と同質の、モディアノ小説世界の特徴を明瞭に備えている。謎と、暗示と、断片性と、逸脱に満ちたテキスト。と同時に、他のどんな小説にもノンフィクション作品にも似ていない、きわめて特異な作品となっている。
つまり、本書は真の意味での、まぎれもない文学作品なのである。これならノーベル文学賞を受賞するのも当然だ。
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