アブソリュート・エゴ・レビュー

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不信のとき

2018-01-28 11:28:19 | 映画
『不信のとき』 今井正監督   ☆☆☆☆★

 1968年公開、田宮二郎主演映画『不信のとき』をDVDで鑑賞。またどろどろのB級サスペンスかな、と思って観たらこれはかなり高品質だった。田宮二郎演じる浅井は商事会社宣伝部のサラリーマン。そこそこ出世もし、美人で社会的地位もある妻(書道の先生)にも恵まれ、子供がいないことを除けば取り立てて不満のない生活を送っていたが、ある時バーのホステスと関係を持って愛人にする。愛人は「迷惑をかけないからあなたの子供が欲しい」と言い、浅井はそれを承諾。やがて愛人が子供を産むと、浅井は子供が可愛くなって足しげく愛人宅へ通う。そんな折今度は妻が妊娠し、妻を不妊症だと思っていた浅井は驚くが、やがて妻が男の子を産むとこれも可愛くてしかたなく、家庭と愛人宅の二重生活をエンジョイする毎日だった。ところが、浅井が急性盲腸炎で入院した時に妻と愛人が鉢合わせしてしまい、彼の極楽生活は崩壊していくのだった…。

 書家である妻を演じるのが岡田茉莉子、愛人を演じるのが若尾文子。豪華二大女優の競演である。この二人の間で綱渡りめいた二重生活を送ろうとするムシのいい男が二枚目の田宮二郎で、この三人の危うい関係性とその怒涛の変遷を描くことがこの映画の眼目だ。とにかく三人それぞれの存在感が強力で、「不信」と「子供」をキーワードにしたトライアングルの緊張感は素晴らしく見ごたえがある。

 映画の華であるところの若尾文子と岡田茉莉子は、どっちがどっちの当て馬ということでもなく、いずれも興味深く周到なキャラクター造形がなされている。若尾文子のホステスはいつもの強欲・したたかは控えめで、前半はむしろ純情でいじらしい日陰の女なのだが、後半で豹変する。女の恐ろしさを体現したようなこの豹変ぶりが見ものです。また岡田茉莉子はいかにもプライドが高い奥様風に登場するが、子供を産んでいないという引け目、夫に裏切られた過去を持つ妻という立場から、だんだんんと哀れな風情も醸し出しつつ、後半やはり意外な動きを見せて物語を攪乱する。とにかく脚本が巧みで、きめ細かな計算がなされている。というか、これはもともと有吉佐和子の原作小説が優れているのだろう。

 さっき二つのキーワードとして「不信」と「子供」を挙げたが、「不信」はまあ分かるとして、「子供」が重要なテーマとしてフィーチャーされるる不倫劇は珍しいのではないか。子供のことを考えろとかではなく、子供を産む産まないがテーマになる、という意味である。愛人の若尾文子はまだ妊娠もしていないうちから子供を産みたいと言うが、まるで子供が欲しくて田宮二郎と関係を持ったようですらある。ここで普通「うん」という男はいないと思うが、彼女のいじらしさにほだされて無謀にも承諾してしまう。それから浅井の取引先の社長で何かと浅井の相談相手となる年輩の男も、若い愛人を作って子供を作らせ、子供を持つ喜びで有頂天になる。一方、浅井は妻に対して不満はないと言っておきながら寝言で「子供さえ産んでいれば」などと呟いてしまい、それを聞いた妻の岡田茉莉子が顔色を変えるシーンがある。この映画は、「子供を作る」ことに関する男や女のさまざまな悲喜劇としても観ることができるように思う。

 ところでその岡田茉莉子が顔色を変えるシーンだが、あーこれはかわいそうだな、と思いながら観ていると、実はこの場面には別の意味があったことが後で分かる仕掛けになっている。実にうまい。これは不倫の物語だけれども、実はメロドラマというよりも、巧みなミスディレクションによって観客を騙すミステリ的な物語なのであった。後半には一種のどんでん返しがあり、その仕掛けはかなり巧緻である。おまけに最後まで観ても、一体誰が本当のことを言って誰が嘘をついているのかはっきりとは分からない。このモヤモヤを残して終わる感じがまたうまい。脚本がまずいためのモヤモヤではなく、計算されたモヤモヤである。

 たとえば若尾文子は途中で愛情が冷めたように見えるが、実は最初から嘘をついていたのだろうか。そして、あの蕎麦の出前がその伏線だったのだろうか。だとしたら凄すぎる。本作最大のポイントである岡田茉莉子の告白も嘘という解釈もあり得るが、私としては戸籍謄本の件があるので、おそらく本当だろうと思う。しかし最後に登場する岸田今日子がまた観客を惑わすようなことを言うので、観客は妙に落ち着かない気持ちで映画を観終えることになる。

 それにしても、やっぱり若尾文子はコワい。あんなにいじらしかった彼女が急激に冷淡になってしまう、あの掌返しが実になんともコワい。両手に華で、人生万歳状態だった田宮二郎はあっという間にキリモミ降下状態。人生、一寸先は闇なんだなあ。ラストシーンもなかなか意味深で、遊園地みたいな場所のベンチでじっと考え込んでいた田宮二郎が、ふと笑いをもらして立ち去る。あれはもう笑うしかない、という自嘲だろうか。それとも、人生どうにでもなるさという開き直りだろうか。

 ところで冒頭、浅井と小柳がヌードスタジオに行く場面があるが、いきなり女性の裸が出てくるので、おやこれはただのエロ映画だったのかと思ってしまった。その後のストーリーテリングは実にハイレベルなので、初見の人はあそこで見る気を失わないようご注意下さい。あのヌードスタジオも変な場所で、個室に入ると音楽も何もなしにただ目の前で娘が服を脱ぎ、その裸をじろじろと鑑賞する。昔は本当にあんな場所があったんだろうか。
 


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