崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

ドイツ映画監督のレニ・リーフェシュタール

2013年02月17日 22時23分55秒 | エッセイ
 田中絹代塾でドイツの女性映画監督レニ・リーフェシュタールのドキュメンタリー映画2篇「原色の海」(2002年作)「アフリカへの思い」(2000年作)を鑑賞した。一つは彼女の最終期の100歳ころにカメラを持って海に潜って撮った美しさの極みの最近作であり、もう一つは1973年アフリカスーダンのヌバ族を再訪する自分が出演する映画である。102歳の命を燃やし尽くして映画製作に人生を捧げた彼女に惚れてしまった。女性監督が撮ったヌード族へ内戦の戦場の村を訪ねて怖さ知らず、カメラを持って前進する中、危険にさらされて撤退時にヘリコプター 機墜落で全員負傷を受けた。彼女はまた挑戦しようとしていた。女性監督が撮った男性のヌード、海の魚の美しさの素晴らしさ、それをはるかに超越した命の捧げ方のメッセージは大きい。
 ナチスの依頼を受けてニュルンベルク党大会の記録映画を撮った。1936年第11回ベルリン大会の記録映画「民族の祭典」を撮り、喝采を受けたが、ナチス・ドイツの崩壊とともに、ドキュメンタリーの最高峰と讃えられたこの作品はファシズムのプロパガンダ映画と貶められ、ナチ協力者としていわれなき中傷や誹謗を受けた。約4年間にわたり獄中で辛酸をなめつくした末、最終的に無罪の判決がいいわたされた。政治と芸術の狭間で数奇な運命をたどった女性である。これらの作品を鑑賞するとそれらの誹謗や中傷は如何に世俗的な無駄なことであるかが浮かんでくる感がした。つまり世俗的な誹謗が、自ら自身の行動を縛りつけ尊い命の能力を自放自棄するにすぎない。個人情報保護とか人の視線を気にする暇もなく高度な芸術や技を求めていくエネルギーを彼女の人生から学ぶべきである。
 昨日の観賞会は我が夫婦を含め観客は5人、寂しい、、もったいない、小さい地方都市、グルーバルは無理だろうか。早速鑑賞した2本を注文した。学生に見せたい。人生教育をしたい。
 

 黒田勝弘「韓国セマウル運動の源流は」2013.2.16

2013年02月17日 06時44分00秒 | エッセイ
 昨日東亜大学の国際交流学科で行ったコリアンフェーアで韓国語と韓国料理など韓国文化を紹介するイベントに意外に多くの人が集まって、私はお客様の接待で忙しい中、広島の友人からの電話で、産経新聞に私の研究が引用されたと聞いた。早速読んだ。以下全文を紹介する。
 その論文は国立歴史民俗博物館の『国立歴史民俗博物館研究報告』第70集(1997)「セマウル運動と農村振興運動」に掲載、韓国語では『史學論叢 : 竹堂 李熙授華甲紀念論文集』(죽당 이현희교수 화갑기념논총 간행위원회 東方圖書 , 1997)にそして私の単行本の日本語の『親日と反日の文化人類学』、韓国語『危険な韓日関係』に収録したものである。

 朴槿恵(パク・クネ)・次期大統領が選挙キャンペーンで使った呼びかけに「チャルサラボセ!」というのがあり、これが結構、中高年層に受けて当選の一助になった。「豊かになろう」という意味で、彼女の父・朴正煕(チョンヒ)大統領時代の1970年代に挙国的に進められた「セマウル(新しい村)運動」をはじめ、経済開発と近代化の国造りの合言葉になった。同じタイトルの歌もあり当時、国中でその歌が流れていた。
 とくに農村振興運動だった“セマウル運動の歌”ともいわれ、このかけ声で韓国の農村は見違えるほど明るく豊かになった。セマウル運動は、それまで疲弊していた農村を、農業外収入や農閑期作業などで所得を増やし、農民にヤル気を出させることで一変させた。生活環境改善事業で住宅、道路、上下水道も一気によくなった。この運動でコメの自給も実現した。のちに「都市セマウル」や「工場セマウル」にも拡大した。
 セマウル運動は「自助・自立・協同」の標語でスタートし後に「勤勉」も加わった。朴政権の最大功績といわれ、後年、東南アジアをはじめ各国でも関心を持たれ“輸出”された。中国でも関心が高く研究対象になった。
 ところが、このセマウル運動の源流は日本だったということはあまり知られていない。日本統治時代の30年代、朝鮮総督府が進めた農村振興運動が
それだった。そして朴正煕が大邱師範学校を卒業し、軍人を目指す前にしばらく先生をしていた慶尚北道の聞慶国民学校は、その農村振興運動の人材育成のための指定校だった。「朴正煕先生」はその人材教育にあたり地域の農場でも指導にあたった。
 農業振興運動の標語はセマウル運動のそれと全く同じで、当時の時代背景から「儀礼簡素化」や「忠孝愛国」もあった。朴正煕は後年、大統領になった際、これを思い出したというわけだ。「セマウル運動は日本がモデル」という話は日本の研究者からも聞いていたが最近、日本在住の文化人類学者、崔吉城(チェ・キルソン)・広島大名誉教授(下関の東亜大学・東アジア文化研究所所長)がその詳細を韓国情報紙「東洋経済日報」(2月8日号)に書いている。
 崔教授は筆者の知人なので“無断紹介”を許していただけると思うが、彼はこの“朴正煕伝説”(?)を当時の聞慶国民学校の教え子たちにインタビューして確認したという。
 崔教授は日本に渡る前、韓国の陸軍士官学校の教官をしたことがあり、そのときに耳にしたエピソードも紹介している。士官学校の食堂で働いていた
おばあさんは朴正煕が師団長時代によく通ったうどん屋の人で、朴正煕が後に士官学校に招いたのだという。
 父・朴正煕は日本風のうどんが好きだったとそのおばあさんは語っていたというが、娘の朴槿恵・次期大統領の好みはどうなんだろう、と気になる。
 彼女は先ごろ手にしていた大型のハンドバッグが海外ブランド物じゃないか、との疑惑説に発展した。国産の中小メーカーの物ということで落ち着いたが、父のように「日本風うどん」が好みなどと言おうものならたちまち大騒ぎだろう。

私の論文は韓国の学会評価されており、参考までに韓国語のものも記しておく。
 
 오유석(성공회대 연구교수)「국민동원체제와 농촌새마을운동」2) 박정희와 유사한 역사적 경험: ‘조선농촌진흥운동’
 
 박정희는 바로 이러한 조선농촌진흥운동이 시작된 1931년 구미보통학교를 졸업하고 대구 사범학교에 입학, 1937년 문경공립보통학교 교사로 3년간 근무했다. 이 문경공립보통학교는 경상북도 농도훈련소 가운데 ‘문경갱생농원’ 과 ‘신북갱생농원’의 경영주체의 지정학교였다. 즉 총독부는 농촌진흥운동을 지도하는데 있어 학교의 직원을 총동원하였는데 박정희가 부임한 문경보통학교가 농촌진흥운동의 지정학교였던 것이다. 박정희는 농촌진흥운동이 한창 전개되고 있을 때 그 학교에 부임했고 갱생원에서의 지도경험을 갖고 있었다.(최길성, 1115-6) 이러한 체험이 박정희가 농촌새마을운동을 구상하고 전개하는데 있어 일정정도 영향을 미쳤을 가능성이 있다. 더구나 당신 농촌진흥운동의 조직적 전개방식이 총독부관료기구를 이용하였고(총독부-도지사-도, 군, 동,리 체제로 명령하달) 주요 사업 중 하나가 각 부락에 ‘중견인물’육성이었다는 점을 미루어 볼 때 1970년대 초반 새마을운동이 시작될 당시 박정희뿐 아니라 행정관료 및 농촌부락단위에는 많은 농촌진흥운동의 유경험자들이 많았다고 할 수 있다. 이러한 점에서 새마을운동이 농촌진흥운동이라는 역사적 경험을 토대로 시작되고 전개되었을 가능성이 높다고 할 수 있다.