崔吉城との対話

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2013年02月10日 04時23分15秒 | エッセイ
<朴正熙先生と朴槿惠大統領>(「東洋経済日報」2013.2.8 連載エッセイ)崔吉城
 朴正熙大統領といえば麦わら帽子を被って田植えをする農民大統領、セマウル大統領を想起するだろう。その娘の朴槿惠氏が大統領になることを歓迎しながら彼女の父親のことを考える。それは陰徳であり、日本語では「お陰様」によるものである。もう一方では負担の陰影でもある。陰陽は宇宙の調和の原理であり、大統領としての行使が期待される。
私は李承晩大統領の長期執権に反対するデモに参加し、軍事クーデタにより民主化が中断され、失望していたが、陸軍士官学校の教官となった当時を回顧すると隔世の感がある。  
 1960年代半ばのことだった。休校中でも特別許可を得て大学研究室で読書会を行った。そんなある日ある大学生が走っている朴大統領の車に向って石を投げたことがあった。その時下車したサングラス姿の朴大統領が歩いて守衛に案内されながら学長に会って「学生指導をきちんと正せよ」と注意してから、陸軍士官学校へ向った。朴大統領は陸軍士官学校には時々土曜日に生徒たち(学生)の「査列」儀式のために来られていた。青瓦台から直接担当する厳しい警備の中、私は近くで彼をお見かけしたこともがあった。一回だけ同じ査列台に同席したことがある。
朴大統領に関する逸話がある。彼は師団長の時、時々食べに行った日本式のうどん屋のお婆さんを士官学校の食堂に呼び、働かせた。彼女は私に朴大統領が日本食を好むという話をしていた。私はその時、大統領はとても人情深い人だと感じた。今から20年ほど前の話である。植民地に関する資料を読む最中に突然朴大統領のことを思い出した。時は変わり私が植民地研究上、気になったのがセマウル運動であった。私は宇垣一成朝鮮総督の農村振興運動下で聞慶国民学校が農村振興運動の「中堅人物」を養成する指定校であったことに目が留まり、もしかしたら当時の朴先生がその農村振興と関連があったのではないかと考えた。
 私はすぐ日本からソウルへ、バスに乗りその学校を訪ねて行った。そして聞慶小学校の朴正熙先生に学んだ金成煥等三人の弟子にインタビューすることができた。私には「先生」というイメージが強く伝わってきた。彼らによると当時朴正熙先生は農村振興の指定学校聞慶更生農園と新北簡易学校更生農園において姜光乙先生が40日間の出張期間に授業を担当したという。村の中堅人物を養成するという農村振興運動の目的で指導者養成の教育を担当したのである。セマウル運動は農村振興運動の「儀礼簡素化」「自力更生」「農村振興」「忠孝愛国」「自立自助」「勤倹」などの思想により、朴正熙大統領がセマウル運動を推進したものと確信するようになった。つまりセマウル運動は戦前の日本植民地政策の再演のようなものであったのである(参照拙著『「親日」と「反日」の文化人類学』明石書店)。今私は朴槿惠大統領が朴正熙大統領のセマウル運動の「セ(新)」をもう一度高いレベルで再創造することを願う。(写真は田植えする朴大統領、生家記念館から)