崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

昔は電灯がなかった

2011年05月31日 05時32分33秒 | エッセイ
 日本には「今は昔」から始まる今昔物語の文学ジャンルがあるのは誰でも知っている。世界的には神話、伝説、民話などがある。昔と言っても太初か、歴史的な時点か、あるいは漠然と「むかし、むかし・・・」のようなものもある。昨日の毎日新聞(下関版)の三嶋支局長評論に「昔はなかったエアコン」の話がでた。彼の文を読みながら私の昔は若干古い、また韓国のことを思い出した。わが生まれ故郷には電気がなかった。夜には小さい豆油燈しかなかった。マッチもなく、火種から採ったり、ブシドルという摩擦するもので火をつけたりしたのである。村に大きい行事があるときはランプを貸し、借りしていた。戦後は日本植民地時代に立てた電信柱の碍子(がいし)を壊して硫黄を使って火をおこした時期もあった。そして1950年朝鮮戦争の時に米軍からジッブというライターが手に入ったのである。私の傍系のお祖父さんのブシドルからライターへの革命に驚いたときの表情は忘れられない。村に電気が入ったのは戦後私がソウルへ転学したずーと後であり、おそらく80年代近くになってからだろう。
 大震災で節電のことが話題になっている。私はその時代を生きてきたので心強いところがある。それが力にもなっている。私は電灯を消して誕生日ケーキの蝋燭の火を消す儀式を見るたびに私の「原始時代」を思い出す。悲しみと懐かしさが混合している。ここまで来た文化が後退することはないだろう。しかし被災地の人々は大部後退した生活をしている。文明が後退する事はないとは思うが、帝国や政権は滅びていく。文化は大事にすべきである。