本欄で触れた私の韓国語エッセー集のあとがきに私の恨について書いた。韓国で生まれ、日本留学、そして日本人女性と結婚、日本の国籍取得、研究テーマも韓国シャーマニズムの研究から日本の植民地研究などへ変わり、日韓を往来しながら生活するようになり、多くの読者から変身、変節などとみられ、非難されたことも多かった。中でも韓国人の研究者への配慮、日本へ韓国文化の紹介、文化交流などに積極的に協力してきたが、それも非難されたことは悔しい。『恨の人類学』を世に出したが、恨は自分のことのように感じる日々も多かった。この本ではその事情を率直に書いた。そしてあとがきに「私の恨」と書いたのである。
「私の恨」のようなものを持っている人は私だけではなく、多くの政治家を含むたくさんの方々がいるはずである。まじめに生きていて社会奉仕も多くしたのに誤解されて、一言の発言で失敗している人もいる。大衆からの誤解を弁解しても効果は少ないと思う。それは問題にしない生き方をするしかないと思う。しかし社会は意外に早く変わる。私は日韓関係の変化によって私の生き方は理解されつつあり、今悔しさは消失した。その変化がこのエッセー集の趣旨である。韓国語の読者に一読を願いしたい。
「私の恨」のようなものを持っている人は私だけではなく、多くの政治家を含むたくさんの方々がいるはずである。まじめに生きていて社会奉仕も多くしたのに誤解されて、一言の発言で失敗している人もいる。大衆からの誤解を弁解しても効果は少ないと思う。それは問題にしない生き方をするしかないと思う。しかし社会は意外に早く変わる。私は日韓関係の変化によって私の生き方は理解されつつあり、今悔しさは消失した。その変化がこのエッセー集の趣旨である。韓国語の読者に一読を願いしたい。