崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

自宅で死にたい

2011年05月08日 03時58分28秒 | エッセイ
教会の村岡芳子氏の訃報が入った。この連休に入院先の関門医療センターに見舞いに行った時のことは本欄でも書いたが、「また海の見えるお宅に集まって楽しい食事をしたい。退院したら是非そうさせてください。」ということばを残して亡くなった。彼女とは韓国旅行に行き、その日が彼女の誕生日と知って、ケーキと果物で、お誕生日のお祝いをした。昨年は私の古希記念式の冒頭でお祈りをしてくださった。中学校の音楽の先生、教会ではオルガニストとして一生奉仕された方である。私は彼女が高齢であっても常に新鮮さを感じていた(写真は私の古希記念の時拙宅で、私の右に座っているのが村岡)。前々週に見舞いに行った時はかなり弱っていてもいろいろと思い出を語ってくれた。家内の祈りに私は泣いてしまった。それが最後の別れになった。
 いま彼女の遺体は教会に横たわっているという。これから前夜式、告別式などが行われる。私は式に参列してお見送りをしたい。そして自分の死に戻って考えたい。私は病院での死が、韓国語の「客死」のように感じる。つまり객사客死とは旅先などで死ぬことであり、事故死などを含み、韓国ではその遺体は自宅へ戻さず葬儀を行う習慣がある。その死は恨みの念が強く、祟るとされているからである。死は日常生活の終末であり、自宅で死ぬことが自然である。それが自然死であろう。それが家族への負担、医療制度などによって病院で死ぬことが当然のようになっている今、私の目からは客死が自然死のようにされているように感じる。自宅で急死などするといろいろ聞かれたり、検死などをするという。今の社会では「自宅で死にたい」というのはかなり無理なことであろう。