崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

敗戦と敗北

2009年08月09日 04時57分50秒 | エッセイ
 今日は8月9日長崎原爆投下記念日である。その3日前には広島がその記念日であった。広島に住んでいたころはほぼ毎日のように聞いた言葉が「原爆」「被爆」「被曝」であった。私は故渡辺正治氏とシンポジウムを開催して広島大学大学院国際協力研究科から報告書も出したことがある。また総合科学部の共同講義では「韓国から見た原爆」という題で話したこともある。大量虐殺の原爆を投下したアメリカや被爆した日本が今北朝鮮の核問題に直面している。それぞれ思いは違う。アメリカでは正当な戦争論を主張する学者もいる。
 日本帝国が19世紀末から植民地や戦争を起こして被爆・敗戦した。つまり挑戦=敗戦を前提に日本は完全に「敗北」を認識すべきであろう。そして平和を、原爆禁止など強く主張すべきである。敗戦して引き揚げる日本人が「よし、またあとで」という日本人の残したことばが怖いと韓国人の親たちは言っていた。つまり日本人は敗戦しても敗北していないと考えたのだ。敗戦は悲惨なことではあるが社会を根本的に変えるチャンスにもなりうる。それは敗北精神によるものであろう。まだ多くの日本人は敗戦しても敗北を認めてはいない。
 8月6日から敗戦の15日までの間の9日間は日本はもっとも空白な時間であった。ディルケンという社会学の用語ではアノミー(anomie)、ターナー用語ではコミュニータス(communitas)というか、大混乱、パニックな状況であった。このような状況で日本はポツダム条約を受け入れ敗戦を宣言した。15日韓国は連合軍によって解放され、大混乱の戦後の状況から朝鮮戦争などへ突入していった悲惨な歴史の始まりでもあった。韓国にも敗北精神が必要である。