verse, prose, and translation
Delfini Workshop
Pascal 『Pensées』を読む(4)
■旧暦7月5日、土曜日、、栄西忌、湿気を含んだ風強し。
(写真)パンプキンいかポックンとサムゲタン
今日もよく寝た。昨日までの夏バテのような症状は嘘のように全快。肩のストレッチを一日に三回、行っている。夏バテのような症状は、頭に血流が十分行かなかったことが原因だったのだろう。
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NHKで日韓の若い人たちが討論する番組を観た。韓国の戦争や植民地支配を直接を知らない世代が、侵略の「心の痛み」について、あれだけ、熱くなるのは、たんなるナショナリズムでは、理解できないように感じた。若い人の祖父母の世代が、直接の被害者であるが、家族間のコミュニケーションが、日本よりもはるかに濃密であることをうかがわせる。そこには、家族の結びつきで、外部の権力に対抗してきた大陸の中の半島の歴史的な経緯があるのだろう。もう一つは、現在も続く半島の冷戦構造がある。若い人は、徴兵に駆り出され、いやでも、同じ民族との敵対関係に巻き込まれる。日本の植民地支配がなければ、半島が分断される事態も起きなかったのではないかとの想いが、あるように思う。これは、客観的に観て、正しい正しくないという話ではなく、韓国の人々の心情なのだろう。さらに、教育の問題があるように思った。韓国では、日本の植民地支配は、ちょうど、アメリカに対するイスラムの人々のように、自尊心を大きく傷つけられた怒りと共に受け止められている。それが、教育の基本に影響しているように感じられた。
広島・長崎・東京大空襲のような被害的側面は、心情的に理解できても、加害的側面は、こちらから相手に歩み寄らないと理解できない。しかも、「心の痛み」というのは、本当のところ、日本社会が30年に及ぶ類似の侵略を経験しないと、わからないと思う。しかも、今や戦争に直接責任のない世代が大半である。そういう状況で、理解を深めあうには、共通教科書作りだけではなく、何らかの仕組みやプロジェクトが必要な気がした。
民族国家、nation stateという枠組みができたのは、そう古い話ではない。19世紀のことである。民間の交流が、国家間の対立で、すぐに途絶えてしまう現実があるという番組の中での話は、よかれあしかれ、nation stateの力がまだ強いことを意味している。朝鮮半島の南北統一のような民族的悲願に、国家としての日本が、どう積極的に関与できるのかは、重要な問題になるのではなかろうか。
感情と政治と時間は、密接に関連している。感情に流されれば、政治的な結果を招き、真実から遠ざかる。理性に過度に傾けば、言葉の世界にとらわれて、その向うに広がる心情を感受できなくなる。そして、時間は常に、政治の側にある。このパラドックスが、問題の難しさの根本にあるように思えた。
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Les mots diversement rangés font un divers sens. Et les sens diversement rangés font différents effets Pensées 654 Édition présentée, établie et annotée par Michel Le Guern Gallimard 2004
言葉は、並べ方を替えれば、違った意味になる。そして、意味は、並べ方次第で、さまざまな効果を発揮する。
■「les sens diversement rangés」(異なって配列した意味)が、日本語でうまくイメージできなかった。「言葉」が指し示すものが「意味」で、「言葉」と「意味」は別々に存在し、「言葉」の方が「意味」より先にある、という前提があるからだ。この前提に立つと、「意味を並べる」という発想がよくわからなくなる。しかし、「ranger」(並べる)という活動が「言葉」や「意味」より先にあると考えると、この断章はすんなり理解できる。この考え方は、20世紀のヴィトゲンシュタインにかなり近いと思う。
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Sound and Vision
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蕪村の俳句(73)
2010-08-13 / 蕪村
■旧暦7月4日、金曜日、、盆迎え火
(写真)花火
今日は、クーラーを見に柏へ行く。途中、何度か眩暈を起こす。クーラーの説明を聞いても、まったく、頭がついてゆかない。これは、疲れているのか、夏バテなのか、よく寝ているのに、変だな、と思う。帰宅して横になっていると、家人がやってきて、肩がひどく凝っていると言う。整体で習って来た二種類のストレッチを勧めるので、やってみた。これが、非常に効いて、頭がクリアになり、ふたたび、意欲が戻ってきた。そのストレッチとは、ごく簡単なもので、片腕ずつ腕を伸ばして、時計回りと反時計回りに10回~20回ずつ廻すものと、腕を折って、指先を肩に着けた状態で、同じように廻すもの。肩こりは、女性がなるものという先入観があったので、はじめから、この可能性は排除していた。自分の体は、案外、自分ではわからないものだなと、改めて思った。ドイツ・イデオロギーが言うように、精神は、身体に取りつかれている。
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端居して妻子を避る暑かな 安永六年
■一読笑った。昔も今も変らない真実だが、妻子がなければ、涼しさも、また、違った味わいになるのだろう。
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Sound and Vision
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蕪村の俳句(72)
2010-08-12 / 蕪村
■旧暦7月3日、木曜日、
(写真)花火
15年使ったクーラーがとうとういかれた。通常の2倍も使用したのだから、いいとするか。この暑いのに、クーラーなしである。午前中、『ドイツ・イデオロギー』を検討する。午後、昼寝。夜、仏花などを買いに出る。暑くて、何もやる気になれないが、夜の川風に吹かれていると、そのたけりように秋を感じるときがある。ゴーヤは実が二つ、雌花が7つになった。
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舟遊び都の人を上坐かな 夜半叟(安永六年)
■遊びなれている都人を上座に迎えた、というのだと思ったら、京都に舟遊びはないらしい(蕪村の時代はともかく、嵐山あたりには、今では、ありそうな気もするが)。この句では、舟遊びを都人に誇る風があることになる。俳諧は、中央に対して、常に、アンビバレントな接し方をする。そこに惹かれる。
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蕪村の俳句(71)
2010-08-11 / 蕪村
■旧暦7月2日、水曜日、
(写真)バンチャン
お盆休み第一日。午前中は、ヴィトゲンシュタインを読んだり、俳句を作ったり。昼寝。その後、ボローニャ国際絵本原画展に行く。板橋区立美術館で15日まで開催されているのだが、アクセスが不便で困った。日本人作家のレベルが高く、印象に残った。二色のクレヨンだけで描いた作品や墨だけで描いた作品など、そのユーモアと諧謔味に惹かれた。夕方、待ち合わせて、新大久保の韓国料理店「おんどる」へ。ここは、安くて美味しかった。ただ、喧騒の中で食べるので、ちと落ち着かない。それもまたいいのかもしれないが。若い女性のグループやカップルが多い。韓国料理は美容にいいとの情報もあるらしい。お酒では、梨サワーとコーン茶ハイが美味しかった。
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風鈴や花にはつらき風ながら
■風鈴の音を楽しみながらも、花のことを回想する心は凄いものだなと感心してしまった。
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Sound and Vision
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蕪村の俳句(70)
2010-08-10 / 俳句
(写真)花火
早朝から仕事に入る。シリアルを切らしたので、飲み物だけでしのぐ。夏休みに読む本を何冊か、探しているだが、なかなか出てこない。雑然と積み上げている本の中から探すのは、けっこう、難儀である。
カレル・ヴァン・ウォルフレンが、今年3月に、政権交代を巡る論考を中央公論に寄せている。日本政治再生を巡る権力闘争の謎が、それで、マスコミと検察の行動を問題にしているところは、共感できた。偏見のない感覚の持ち主なら、この二つが、明らかに、異常であることは、この数カ月ではっきり見えたと思う。ひと頃、マスコミで「わたしは中立です」という言説が流行ったが、「わたしは無責任で欺瞞的です」と言っているに等しいと思う。現存社会に生きているかぎり、「中立」などありえないからだ。自分の立脚している価値に自覚的になることが中立の本来的な意味だろう。ウォルフレンは、非公式権力システムの監視役として、既存のメディアをまだ挙げているが、もう無理だろう。既存のメディアは、情報商品の論理に侵されすぎている。オルタナティブなメディアとしてのウェブと何らかの社会運動が、マスコミや検察などの、既存の権力が作りだす社会的カテゴリーを解体できるのではないだろうか。
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木刀を請べき猛者の団かな 落日庵(明和八年)
■ユーモアに惹かれた。猛者と団扇の落差が面白い。
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Sound and Vision
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Pascal 『Pensées』を読む(3)
■旧暦6月29日、月曜日、、長崎忌
(写真)花火
早朝に目が覚めてしまい、仕事に入る。朝の3時半。9時に、間違って一階でデイケアを待つ叔母を連れ帰る。どうも、デイケアの曜日を覚えるのは無理なようだ。早朝に雨が降ったせいか、涼しい風が吹いている。ゴーヤに雌花が咲いた。二つ目の雌花。
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Qu'on ne dise pas aue je n'ai rien dit de nouveau, la disposition des matiéres est nouvelle. Quand on joue à la paum, c'est une même balle dont joue l'un et l'autre, mais l'un la place mieux.
J'aimerais autant qu'on me dît que je me suis servi des mots anciens. Et comme si les mêmes pensées ne formaient pas un autre corps de discours par une disposition différente, aussi bien que les mêmes mots forment d'autres pensées par leur différente disposition.
Pascal Pensées 590 Édition de Michel Guern folio classique Gallimard 2004
新しいことはわたしは何も言っていない、などとは言わないでほしい。話題の並べ方が新しいのである。ポーム(テニスの原型)をするとき、二人のプレイヤーが用いるのは、一つのボールだが、一方のプレイヤーの方が、他方よりも、空間を上手に利用するのである。
これと同じように、私は古い言葉を使っていると言われたい。同じ言葉でも、並べ方を変えると違った思想になるように、同じ思想でも、並べ方を変えれば違った言説にならないはずがないのである。
※メモ:代名動詞は複合時には、助動詞êtreを取る。再帰代名詞が直接補語である代名動詞は、複合時には、過去分詞が再帰代名詞の性・数(=主語の性・数)にしたがって変化する。
※疑問点:leur différente dispositionの語順。なぜ、leur disposition différenteとならないのだろうか。簡単なことかもしれないが、一応、この段階での疑問としてメモ。
■この個所は、断章そのものよりも、その並べ方こそが重要だとしたヴィトゲンシュタインを彷彿とさせる。
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Sound and Vision
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蕪村の俳句(69)
2010-08-08 / 俳句
(写真)花火
昨日、久しぶりに指圧に行き、夜は花火だったので、飲み過ぎて、起きたら1時だった。今日は、午後、ゆっくり新聞を読んでから、掃除して、涼しくなってから、買い物に行く。今晩も、麦酒のつまみみたいな夕食となる。
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突きさして団(うちは)わするゝ俵かな 落日庵 明和八年
■積み上がった俵に団扇がつきささっている景が面白くて惹かれた。
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Sound and Vision
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蕪村の俳句(68)
2010-08-06 / 俳句
(写真)無題
朝のうち、曇っていたが、午後から、抜けるような青天。雲がないので、一瞬、秋の空かと思うほどだった。夜になると、風が涼しく、初めて、線路際で、虫の声を聞いた。金曜日か。夏期講習期間中は、昼間の仕事と相まって、かなり疲れてくる。中高生と話をするのは、面白い経験ではあるのだが。
今日は、広島忌。『原爆詩181人集』から木下夕爾の詩を紹介したい。
火の記憶
とある家のかきねから
つる草がどんなにやさしい手をのばしても
あの雲をつかまえることはできない
遠いのだ
あんなに手ぢかにうかびながら
とある木のこずえの
終りのセミがどんなに小さく鳴いていても
すぐにそれがわきかえるような激しさに変る
鳴きやめたものがいっせいに目をさますのだ
街の曲り角で
いなか路の踏みきりで
私は立ちどまって自分の影を踏む
太陽がどんなに遠くへ去っても
あの日石だたみに焼ききざまれた影が消えてしまっても
私はなお 強く 濃く 熱く
今在るものの影を踏みしめる
☆
涼しさや鐘をはなるゝかねの声 安永六年
■これも蕪村の句の中で好きなもののひとつ。鐘の音がゆっくり響いてゆく感じが、視覚的に表現されていて惹かれる。それを「涼しい」と感じる感性にも共感できる。今よりも静寂と自然が溶け合っていた夏の夜明けの風景。
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Sound and Vision
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蕪村の俳句(67)
2010-08-04 / 俳句
(写真)無題
ゴーヤの蔓が伸びてきて、グリーンカーテンに近くなってきた。夏の日に緑が輝いている様子は、なかなか涼しげである。
叔母は、短期記憶がほとんどないので、さまざまな問題が起きるのだが、ここで一度、認知症のテストである長谷川式をやっておこうと思い、先日実施した。なかなか、厳しい結果が出た。環境が変わったので、一概に数値だけでは判断できない。また、今のところ、デイケアでの問題行動もないので、経過を観察しながら、数カ月後にふたたび行うことになった。しかし、いよいよ、来たか、という感じはある。
今日は、5時間弱睡眠で、夜の仕事もこなしたので、けっこう、きつかった。中学生に英語を教える中で、過去の時制について、いつもと違う角度から説明してみた。生まれて最初の記憶は何か、と聞いてみたのである。13年か14年しか生きていない子たちである。当然のことながら、すぐに答えが出てくるはずはない。「記憶はない」という答えが多かった。意外に、これも真理かもしれないと思った。つまり、生まれた状態を想像し、そこから、記憶を手繰り寄せるような作業をしたのではなかろうか。これでは、「記憶はない」という表現になっても不思議ではない。次に、質問を変えてみた。一番古い記憶は何か、と聞いてみたのである。これで、いくつか、上がってきた。一つは、「三輪車に乗っている記憶」。もう一つは、「歩いている記憶」。実に興味深いと思った。大人になればなるほど、過去の記憶は、作られ、再編成されてゆくから、13、4の子供の記憶は、それだけ、編集の手が少ないと思えるからだ。われわれの記憶の原初的な形態も、これに近いものだったかもしれない。三輪車というポピュラーな乗り物が、今の子の記憶の底にあることにも驚いたが、「歩いている」記憶というのは、人類の記憶そのものに重なるようではないか。二足歩行を始めたばかりの人類の記憶に。夏の夜は、ときとして、遙かなものに触れさせるのかもしれない。
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落合ふて音なくなれる清水哉 安永三年
■清水の音の有る無しに着目する感覚の鋭さに惹かれた。なかなか、気がつかないことであるし、気がついても「落ち合ふて音なくなれる」の措辞は出てこないと思う。現代の句会に出されても、理解されるかどうかは、微妙なところかもしれない。それだけ、現代では、静寂がなくなっているから。
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Sound and Vision
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蕪村の俳句(66)
2010-08-03 / 俳句
(写真)無題
漢方で「水毒」、西洋医学で「水中毒」、俳句で「水あたり」というやつにやられたらしい。端的に言って、水分の過剰摂取によるもろもろの障害だが、舌の先と右側にしびれが出て、胃腸がやられた状態になった。アイスティーが美味いので、やたらに、飲みすぎたのである。いっとき、はっきり、しゃべるのに支障が出るようになったので、困った。現在は、だいぶ良くなってきた。
ヴィトゲンシュタイン晩年の著作『確実性の問題』(1969)を読み始める。これは、正確には著作ではなく草稿なのだが、なぜ、このテキストなのか、というと、これが「知と信の問題」を尖鋭的な形で扱っているからである。今まで、アンソロジーで、部分的に、『確実性の問題』を読んできたが、そのとき、感じたのは、このテキストが、イデオロギー論に、新しい視角を提供するのではないか、という漠然とした感じだった。もともと、中後期の思想である、「言語ゲーム論」は、社会や歴史とのリンクが可能な議論であるし、『確実性の問題』に出てくる「世界像」という概念は、イデオロギーとして読むことができるのではないかと、ぼくは思っている。「知と信の問題」とは言いかえれば「情報とイデオロギーの問題」でもある。良い翻訳だと思うが、理論や思想は、原書がないと、思想史上の関連性が見えなくなる場合がある(テキストは、内在的な理解だけでなく、思想史的・社会史的な文脈において考える外在的な読みが必要だと思う)ので、いずれ、入手しなければ、と思っている。
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石工(いしきり)の鑿冷したる清水かな (明和五年)
■石工の鑿が冷たい清水の底に冷やされている情景に惹かれた。清水と言えば、飲むものという発想とは違った、それでいて、説得力のある句作りだと思う。鑿の硬質な切れ味と清水の清冽さが響き合っている。
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