goo

L・Wノート:確実性の問題(4)


■旧暦7月15日、火曜日、

(写真)無題

7. Mein Leben zeigt, daß ich weiß oder sicher bin, daß dort ein Sessel steht, eine Tür ist usf. Ich sage meinem Freude z. B. 》Nimm den Sessel dort《, 》Mach die Tür zu《, etc., ect. Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

わたしは、そこにソファがある、ドアがあるなどということを、知っている、あるいはそう確信している。それを証明するのは、わたしの生活である。たとえば、わたしは、友人に、「そのソファを持ってきてくれ」、「そのドアを閉めてくれ」などと言っている。

■生活の中の実践が、「わたしは~を知っている」という知識、あるいは「わたしは~を確信している」という確信を、裏づけているということだと思うが、「~」の中身が、わたしの生活から大きくはみ出るような命題は、どうなるのだろうか。たとえば、「信長は秀吉に暗殺されたことをわたしは知っている、あるいはそう確信している」のような命題は。資料や調査によって、立証することになるのだとしたら、実証主義と変わらない。







コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

蕪村の俳句(79)


■旧暦7月13日、日曜日、

(写真)無題

途中、夜なかに目が覚めてしまったが、9時まで眠る。家人の実家より、梨、幸水が届く。今年は、夏の前半、風雨が多かったので、味はどうかな、と心配していたが、甘く濃い味わいだった。午後、昼寝。ゆっくり過ごした。夕方、叔母の様子を見に行く。元気に動いているので、安心した。夜は、久しぶりに外食。娘の就職祝いである。これで、一つの区切りがついた。



蜻蛉や村なつかしき壁の色   落日庵(明和五年)

■村の壁の色という着眼に惹かれた。壁の色を見て、故郷の村の様子を思い出しているのだろう。回想の中の村から、秋の日の土の匂いまで伝わってきそうである。



Sound and Vision

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

L・Wノート:確実性の問題(3)


■旧暦7月13日、日曜日

(写真)無題

5.Ob sich ein Satz im Nachhinein als falsch erweisen kann, das kommt auf die Bestimmungen an, die ich für diesen Satz gelten lasse.Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

ある命題が、後に、偽であると証明できるかどうかは、わたしが、その命題をどう用いるかで決まる。

■die Bestimmungenをどう理解するかが重要な点だと思う。黒田亘訳では、「わたしが、この命題にあてがう役割できまる」としている。die Bestimmungenは、そのまま名詞の「役割」として訳出されている。これとほぼ同じだが、ここでは、「用途」の意味に理解し、動詞的に訳出した。内容的には、ある命題を疑うことに意味があるかどうかは、その命題がどう使われるか(その用途や目的)で決まる、というものだと考えた。命題が生活の中の実践と結びついているという捉え方は、正しいように思う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

蕪村の俳句(78)


■旧暦7月12日、土曜日、

(写真)無題

午前中、叔母のところに来た往診の歯科医に立ち会う。歯医者さんまで、最近は、長く歩けない高齢者のところへ往診に来てくれる。助かる。次回は、なんと、レントゲンを撮るという。モバイルの撮影セットまであるらしい。午後、柏へ。雑用をいくつか済ませる。帰宅して、家で獲れたゴーヤを天ぷらにする。前回の経験を踏まえて、厚めに切って揚げる。市販のものよりもゴーヤ本来の苦みがあって、ビールのアテにちょうどいい。今日の夕食は、オリオンビールにパパイヤのイリチー、タコライス、もずくを加えて、沖縄尽くしとなった。



稲づまや浪もてゆへる秋津しま   (明和五年)

■蕪村を読んでいると、ときどき、こうした鳥瞰的な句にめぐり会う。蕪村の空間的な想像力に惹かれる。画家であったから、空間に関する感受性と想像力は、人一倍、研ぎ澄まされていたのだろう。蕪村がこの句を作ったとき、国土の空間的なイメージは、どうだったのだろうか。この句が作られた明和五年は、西暦1768年になる。伊能忠敬が、測量を開始するのが、1800年であるから、蕪村の国土のイメージは、現在のものとは、異なっていた可能性がある。1770年に作成された「大日本道中行程細見記」は、こんな感じである。アバウトだが、イメージは、それほど大きく異なっていない。ただ、北海道と西南諸島が、まるまる抜けている。



Sound and Vision





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

L・Wノート:確実性の問題(2)


■旧暦7月12日、土曜日、

(写真)無題

3. Wenn z.B. jemand sagt 》Ich weiß nicht, ob da eine Hand ist《, so könnte man ihm sagen 》Schau näher hin《.- Diese Möglichkeit des Sichüberzeugens gehört zum Sprachspiel. Ist einer seiner wesentlichen Züge. Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

たとえば、ある人が、「わたしは、そこに手があるかどうか知らない」と言うとすれば、われわれはこれに対して、「もっとよく見てごらん」と言うことができる。―こうした自己確認の可能性がこの言語ゲームの一要素になっている。この言語ゲームの重要な特徴の一つと言ってもいい。

■言語ゲーム(das Sprachspiel)と言うと、ある状況の中に投じられた言語というイメージがあるが、ここを読むと、言語と行為は言語ゲームの中で、一体的なものであることがわかる。また、「わたしは○○かどうか知らない」という命題は、生活の中での、自己確認の可能性を含むものであるとする考え方は、実証主義というよりも、生活主義と言った方がいいのかもしれない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

蕪村の俳句(77)


■旧暦7月11日、金曜日、

(写真)無題

金曜か。暑い一週間だったが、朝晩は、秋の気配が濃厚に漂い始めた。クーラーがいかれて、温度設定を低くしないと正常に稼働しないので、いったん作動させると寒くて、夜は毛布をかぶって寝ていた。起きると、のどが痛くなり、体が冷え切っているので、この二日は、クーラーなしで、扇風機だけで過ごしている。

内田百原作、一條裕子漫画の『阿房列車』(小学館)を読む。元祖鉄の百先生は、実に愉快。頑固さがそのまま笑いになっている。一條裕子の絵が非常に上手く、また、味があって、効果を上げている。女性漫画家は、『チェーザレ』の惣領冬実もそうだけれど、絵が上手い人が多い気がする。お供に連れて行かれるヒマラヤ山系くんが、まことにいい味である。



四五人に月落かゝるおどり哉   (明和五年)

■英一蝶の絵の賛。「月落かゝる」という措辞で月の大きさが際立ってくる。そこに惹かれた。踊り手は四、五人。



Sound and Vision


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

L・Wノート:確実性の問題(1)


■旧暦7月11日、金曜日、

(写真)無題

2. Daß es mir - order Allen - so scheint, daraus folgt nicht, daß es so ist. Whol aber läßt sich fragen, ob man dies sinnvoll bezweifeln kann. Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

わたしにとって、あるいは、すべての人にとって、そう思われるということから、実際にそうであるという帰結は出てこない。
そうではあるが、これ(そう思われること)を疑うことに意味があるかどうかは、問われなければならない。


■「思われること」と、「そうである」ことの違い。第一文は、常識的であるが、「思われたこと」を疑うことに意味があるかどうか、という問いは、意表を衝いている。疑う行為に意味のある場合とない場合があるということ示唆していて興味深い。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

蕪村の俳句(76)


■旧暦7月9日、水曜日、

(写真)無題

もろもろ、人生が忙しくて、写真を撮るのをしばらく忘れていた。去年のものを使ったりしていたのである。今日は、雲の新作! そう言えば、年頭に立てたテーマをすっかり忘れていた。「雲と水」後半戦は、このテーマを追求するw。「へうげもの」3、4を読了。表現は、まったくの漫画だが、戦国武将と茶の関わりが具体的に見えて、とても、興味深い。俳諧と戦国武将も、相当、関連があるので、この方面を調べてみようか、とも思っている。



秋風をわすれて居たる寝覚哉   夜半叟(安永六年)

■秋風を感じる頃になると、まず、思い出すのが、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬ」(藤原敏行)の歌であり、多くの人がそうではなかろうか。蕪村の俳句は、この歌の「おどろく」を目覚めと取って、気がついたら、秋風が吹いていたという景に転じている。寝覚めは、秋風で起きたのに秋風に気がつかない。ぼーっとしている。和歌に対する飄逸な応答になっていて惹かれた。



Sound and Vision


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

蕪村の俳句(75)


■旧暦7月7日、月曜日、、七夕(旧暦)、送り火

(写真)無題

今日は、一日、異様に暑い日だった。夜になっても暑い。外へ出れば、サウナの中を行くごとし。タジン鍋をはじめて使用。水の少ないモロッコで、いかに、素材本来の水分を生かすか、という発想で生まれた伝統的な鍋。素材の水分が蒸発せず、鍋の中を循環する構造になっている。おもに、煮込み料理に使われる。野菜の上に鳥肉を載せて、タジン鍋で煮込み、胡麻だれで食した。タレは、いろいろ、工夫の余地がありそう。ウェブで検索すると、レシピもいろいろ、あるらしい。料理自体も、簡単で早くできる。始めて食べた感想を言うと、野菜から、これまで食べたことがないくらい、本来の甘みが引き出されていた。



秋風におくれて吹くや秋の風   落日庵(明和六年)

■「秋風」と「秋の風」の語感の微妙な違いを捉えたところに惹かれた。「秋風」は秋の訪れを告げる風。「秋の風」は秋に吹く一般の風。「の」という格助詞一つで、これだけ微妙な表現を生むところが面白い。俳句の言葉の面白さは、一つは、「微妙さ」にあると思う。現代では、テクノロジーの発展と存在の商品化、社会の合理化によって、「微妙なコンテキスト」がすべて平板なものに均されてしまっている。このため、微妙さを捉える感受性自体も消えかかっている。俳句が、反時代的なプロテストたりえる所以だと思う。



Sound and Vision







コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

蕪村の俳句(74)


■旧暦7月6日、日曜日、、盆、敗戦忌

(写真)無題

朝から、掃除。午後、ゴーヤの天ぷらを作る。上手く行ったが、少し、細く切りすぎた。夕方、ぶらりと、本屋へ。井上ひさし、最後の長編『一週間』を購う。シベリア抑留という重いテーマを、どう読ませ、考えさせるものに仕立てているか、興味津々。お盆休み最終日。



心太さかしまに銀河三千尺   夜半叟(安永六年)

■心太を啜りあげる様子を、逆さに銀河を吸い上げる様にたとえた面白さに惹かれた。奇抜だが、言われてみると、日常の中に宇宙を感じ取る面白さがある。日常も宇宙なのだから。



Sound and Vision

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »