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Pascal 『Pensées』を読む(2)


■旧暦6月21日、日曜日、

(写真)

今日は、5時に起きて、また、眠ってしまった。起きたら、11時。午後、叔母の様子を見に行ってから仕事する。夕方、家人と西瓜を買いに出る。それまで、小玉西瓜を食していたのだが、どうも物足りない。夏は、やはり、大ぶりの西瓜だと家族内で意見の一致をみたわけである。山形の尾花沢産のものを購う。旧暦なら、今はまだ、6月下旬である。夜、仕事をしながら、料理を二品作る。茄子の鴫焼きとピーマンの炒め物。ぼくの料理は、焼く、炒めるが、中心で、まだまだ、入門篇なのである。



タタルケヴィッチは『哲学史』のエピグラムに、パスカルのパンセから、別の断章も引用している。

Qu'on ne dise pas aue je n'ai rien dit de nouveau, la disposition des matiéres est nouvelle. Quand on joue à la paum, c'est une même balle dont joue l'un et l'autre, mais l'un la place mieux.
Pascal Pensées 590 Édition de Michel Guern folio classique Gallimard 2004

新しいことはわたしは何も言っていない、などとは言わないでほしい。話題の並べ方が新しいのである。ポーム(テニスの原型)をするとき、二人のプレイヤーが用いるのは、一つのボールだが、一方のプレイヤーの方が、他方よりも、空間を上手に利用するのである。

■このフランス語を理解するのは、ぼくには、難しかった。前田陽一、由木康の日本語版(中公文庫 初版1973年)とA.J. Krailsheimer訳の英語版(PENGUIN BOOKS 1995)を中心に参照しながら、日本語訳を作ったものである(今後、この「Pascal 『Pensées』を読む」では、とくに断りがない限り、この方法を取る)。これらのテキストを参照しても、一つ疑問が残る。それは「c'est une même balle dont joue l'un et l'autre,」の個所の動詞に関わる。joueはplayの一人称形だが、原形はjouerのer動詞であるから、主語が三人称複数であれば、jouentになるはずである。なぜ、一人称のままなのだろうか。これに関連して、主語と動詞が倒置されているが、関係代名詞dontを用いてある形容詞節での倒置は、見たことがない(少なくとも調べた範囲では)。17世紀のフランス語だから、ということで説明がつくのだろうか。ぼくの理解に決定的な間違いがあるのだろうか。

内容的な話に入ると、タタルケヴィッチが、この断章590番を引用したのは、なにか新しい事を言うこと、あるいは、やることの重要性だったと思われる。パスカルは、素材の配置(la disposition des matiéres)が新しいと主張している。実は、この断章は、後段がある。これを読むと、パスカルが、20世紀のヴィトゲンシュタインの思想に近いところをかすめていたことがわかる。ポームのたとえ話も、後段を読んで初めて意味が鮮明に見えてくる。後段の検討は、後日。


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