verse, prose, and translation
Delfini Workshop
柴田三吉詩集『非、あるいは』
2009-10-25 / 詩
■旧暦9月8日、日曜日、
(写真)無題
柴田さんの第5詩集『非、あるいは』(2009年 ジャンクション・ハーベスト)を読む。まず、本詩集の中の最高傑作を紹介したい。
つるん
柴田三吉
人が脱糞している姿を見た
うすい日が差し込む 午後の公園
落葉の積もった
ふわりとした土の上
男が脱糞している姿を見た
木枯しの吹きぬけるなか
お尻をつるんとむきだしにし
手にはくるりと丸めたペーパーを持ち
ジョギングの女性はあわててピッチを上げ
わたしは立ち止まって見入った
樹木のように尾骨の張った
堂々としたお尻
はずかしいのは
はずかしがるおまえたちだとばかり
悪びれた様子もなく ハウスの横で
男は脱糞している
きょうはいいものをみたなあ
わたしは妙にうれしくなり
とてもきれいなお尻だったよと
だれかに報告したい気分だった
「出生入死」
―出づれば生、入れば死*
ああ出すのが生
出さぬが死
*老子 第50章
「つるん」全
■鑑賞も解説も不要だろう。諧謔と深々としたユーモア。柴田さんにはいい詩がたくさんあるけれど、これは最高傑作のひとつだと思う。
この『非、あるいは』という詩集は、物語の気配にあふれている。物語が詩になる、ということはどういうことなのか。そもそも、物語の方が古いのだから、そこに未分化の形で詩が埋め込まれている、と考えた方が正確かもしれない。たとえば、
道ばたに老婆がすわっている
これを買ってくれないかとこぶしを差しだし
古い花びらのような指をひらく
ちいさな実がひとつのっている
夢の実だという
これを食べて眠りなさい
しゃぼん玉の夢をみるよ
いちどきり そっと息を吹きこめば
あんたのたましいが
姿をあらわすよ
「しゃぼん玉」部分
一位の實しづかに息を吹き込めり
■この二重の語りは、どこか、遠いシルクロードの砂塵の中の町角か、平安時代の都の裏通りに連れて行かれるようだ。
また、柴田さんには、叡智の詩人としか言いようのない側面がある。たとえば、
わたしとは 明滅する細胞のあいだを飛びつづける蜂鳥のようなものらしい。ぶんぶん羽音を鳴らして心を終え 非へと 跡形もなく消えてしまう存在なのです。
「非、あるいは」部分
蜂鳥の音止みにけり昼寝覚
■「非、あるいは」の「あるいは」。これをめぐって、あるいは、これのために、人類は生きてきたようなところがあるが、トランスヒューマニストによれば、ナノテク・情報テクノロジー・バイオテクノロジー・ロボットテクノロジーといったテクノロジーの発展いかんでは、死が先へ先へと延びてゆく時代が来るという。
五十年生きると百年の意味が分かるようになり 千年の意味もうすうす感じ取れるようになる。つらいこともむごいこともあったのに ひとはこんなにもけなげに遠くまでやってきた。
「時間」部分
年寄るもさうわろくなき柚味噌かな
百年は意外に軽き木の實かな
たずねても旅人は目のまえの風景を語ることができない。それを語るにはひとのことばではない けもののことばが必要だ。
「果てへ」部分
色鳥や無何有郷にことばなし
(写真)無題
柴田さんの第5詩集『非、あるいは』(2009年 ジャンクション・ハーベスト)を読む。まず、本詩集の中の最高傑作を紹介したい。
つるん
柴田三吉
人が脱糞している姿を見た
うすい日が差し込む 午後の公園
落葉の積もった
ふわりとした土の上
男が脱糞している姿を見た
木枯しの吹きぬけるなか
お尻をつるんとむきだしにし
手にはくるりと丸めたペーパーを持ち
ジョギングの女性はあわててピッチを上げ
わたしは立ち止まって見入った
樹木のように尾骨の張った
堂々としたお尻
はずかしいのは
はずかしがるおまえたちだとばかり
悪びれた様子もなく ハウスの横で
男は脱糞している
きょうはいいものをみたなあ
わたしは妙にうれしくなり
とてもきれいなお尻だったよと
だれかに報告したい気分だった
「出生入死」
―出づれば生、入れば死*
ああ出すのが生
出さぬが死
*老子 第50章
「つるん」全
■鑑賞も解説も不要だろう。諧謔と深々としたユーモア。柴田さんにはいい詩がたくさんあるけれど、これは最高傑作のひとつだと思う。
この『非、あるいは』という詩集は、物語の気配にあふれている。物語が詩になる、ということはどういうことなのか。そもそも、物語の方が古いのだから、そこに未分化の形で詩が埋め込まれている、と考えた方が正確かもしれない。たとえば、
道ばたに老婆がすわっている
これを買ってくれないかとこぶしを差しだし
古い花びらのような指をひらく
ちいさな実がひとつのっている
夢の実だという
これを食べて眠りなさい
しゃぼん玉の夢をみるよ
いちどきり そっと息を吹きこめば
あんたのたましいが
姿をあらわすよ
「しゃぼん玉」部分
一位の實しづかに息を吹き込めり
■この二重の語りは、どこか、遠いシルクロードの砂塵の中の町角か、平安時代の都の裏通りに連れて行かれるようだ。
また、柴田さんには、叡智の詩人としか言いようのない側面がある。たとえば、
わたしとは 明滅する細胞のあいだを飛びつづける蜂鳥のようなものらしい。ぶんぶん羽音を鳴らして心を終え 非へと 跡形もなく消えてしまう存在なのです。
「非、あるいは」部分
蜂鳥の音止みにけり昼寝覚
■「非、あるいは」の「あるいは」。これをめぐって、あるいは、これのために、人類は生きてきたようなところがあるが、トランスヒューマニストによれば、ナノテク・情報テクノロジー・バイオテクノロジー・ロボットテクノロジーといったテクノロジーの発展いかんでは、死が先へ先へと延びてゆく時代が来るという。
五十年生きると百年の意味が分かるようになり 千年の意味もうすうす感じ取れるようになる。つらいこともむごいこともあったのに ひとはこんなにもけなげに遠くまでやってきた。
「時間」部分
年寄るもさうわろくなき柚味噌かな
百年は意外に軽き木の實かな
たずねても旅人は目のまえの風景を語ることができない。それを語るにはひとのことばではない けもののことばが必要だ。
「果てへ」部分
色鳥や無何有郷にことばなし
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