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柴田三吉詩集『非、あるいは』

■旧暦9月8日、日曜日、

(写真)無題

柴田さんの第5詩集『非、あるいは』(2009年 ジャンクション・ハーベスト)を読む。まず、本詩集の中の最高傑作を紹介したい。


つるん

                        柴田三吉

人が脱糞している姿を見た
うすい日が差し込む 午後の公園
落葉の積もった
ふわりとした土の上

男が脱糞している姿を見た
木枯しの吹きぬけるなか
お尻をつるんとむきだしにし
手にはくるりと丸めたペーパーを持ち

ジョギングの女性はあわててピッチを上げ
わたしは立ち止まって見入った
樹木のように尾骨の張った
堂々としたお尻

はずかしいのは
はずかしがるおまえたちだとばかり
悪びれた様子もなく ハウスの横で
男は脱糞している

きょうはいいものをみたなあ
わたしは妙にうれしくなり
とてもきれいなお尻だったよと
だれかに報告したい気分だった

「出生入死」
―出づれば生、入れば死*

ああ出すのが生
出さぬが死


*老子 第50章

「つるん」全

■鑑賞も解説も不要だろう。諧謔と深々としたユーモア。柴田さんにはいい詩がたくさんあるけれど、これは最高傑作のひとつだと思う。

この『非、あるいは』という詩集は、物語の気配にあふれている。物語が詩になる、ということはどういうことなのか。そもそも、物語の方が古いのだから、そこに未分化の形で詩が埋め込まれている、と考えた方が正確かもしれない。たとえば、


道ばたに老婆がすわっている
これを買ってくれないかとこぶしを差しだし
古い花びらのような指をひらく
ちいさな実がひとつのっている
夢の実だという

これを食べて眠りなさい
しゃぼん玉の夢をみるよ
いちどきり そっと息を吹きこめば
あんたのたましいが
姿をあらわすよ


「しゃぼん玉」部分

一位の實しづかに息を吹き込めり


■この二重の語りは、どこか、遠いシルクロードの砂塵の中の町角か、平安時代の都の裏通りに連れて行かれるようだ。


また、柴田さんには、叡智の詩人としか言いようのない側面がある。たとえば、


わたしとは 明滅する細胞のあいだを飛びつづける蜂鳥のようなものらしい。ぶんぶん羽音を鳴らして心を終え 非へと 跡形もなく消えてしまう存在なのです。

「非、あるいは」部分

蜂鳥の音止みにけり昼寝覚


■「非、あるいは」の「あるいは」。これをめぐって、あるいは、これのために、人類は生きてきたようなところがあるが、トランスヒューマニストによれば、ナノテク・情報テクノロジー・バイオテクノロジー・ロボットテクノロジーといったテクノロジーの発展いかんでは、死が先へ先へと延びてゆく時代が来るという。


五十年生きると百年の意味が分かるようになり 千年の意味もうすうす感じ取れるようになる。つらいこともむごいこともあったのに ひとはこんなにもけなげに遠くまでやってきた。

「時間」部分

年寄るもさうわろくなき柚味噌かな
百年は意外に軽き木の實かな



たずねても旅人は目のまえの風景を語ることができない。それを語るにはひとのことばではない けもののことばが必要だ。


「果てへ」部分

色鳥や無何有郷にことばなし
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