verse, prose, and translation
Delfini Workshop
フランス語になった俳人たち(11)
2009-06-14 / 俳句
(写真)日本美人
昨夜、蒸し暑くてよく眠れず。朝早く起きて、散歩。ジョナサンで、西郷信綱の『梁塵秘抄』を読む。キリマンジェロが旨かった。帰宅して、掃除。今年は、鉢のミニ薔薇がよく咲いた。夕方、また、散歩。喫茶店でロバート・フロストの詩を検討する。
考えてみると、アファナシエフと朗読を一緒にできたのは、幸運なことであると同時に、ある種の感慨を覚える。2005年の初夏、初めて人前で自作を朗読したとき、それは、韓国の詩人たちと一緒だったのだが、このとき、朗読のモデルにしたのが、アファナシエフのピアノ演奏スタイルであり、音に対する彼の思想だった。アファナシエフから、音が生まれそして帰ってゆく母なる沈黙の重要性を学んだ。沈黙は何もないことではない。このときから、朗読することで、音の背後に広がる沈黙を表現することをめざしてきた。金曜日に、そのマエストロの前で、朗読できたことは、4年越しの実験の成果を問うことにもなったと思う。ぼくが主役ではないので、控え目に、自己表現したつもりだが、彼には、ぼくの意図が伝わったと感じた。頷きながら、ぼくの朗読を聴いていたからである。
◇
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭蕉「猿蓑」
Les cigales vont mourir-
mais leur cri
n'en dit rien
※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002
蝉はやがて死ぬ
だが声には
そんな気配はまったくない
■英国人のO君がこんな事を言っていた。英語と日本語の違いを情報面から言うと、一センテンスあたりの情報量は、日本語の方が多いと言う。英語では、情報量が多くなると、混乱するので、センテンスを二つに分けるという。フランス語の感覚も基本的には、同じではないだろうか。
日本語の俳句は、「やがて死ぬけしきは見えず」と「蝉の声」で形の上では切れているが、取り合わせの句ではなく一物仕立てである。蝉の声という一つのテーマを詠んでいるからだ。この句には情報が二つ入っている。一つは。蝉はやがて死ぬこと、ふたつは、その気配は声には感じられないこと。フランス語版では、情報の面から、ふたつに切っている。もちろん、取り合わせにしているのではなく、テーマは一つである。日本語版と異なるところは、「蝉の声」という季語の扱い方だろう。
同じ主題を扱いながら、日本語版は、音楽的な配慮から、季語の前に間を入れているのに対して、フランス語版は、音楽的配慮がないとは言わないが、それよりも、情報内容という点から、原句を二つのセンテンスに分けている。
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飴山實を読む(117)
2009-06-13 / 俳句
(写真)紫陽花の径
早朝に起きる。英語俳句を5句投句。朝の散歩。川でぼーっとする。歯医者、午後、病院。なんだか、何もしないうちに日が暮れた。朗読会が終わったので、今後は、F巻さんに提案した仕事に専念する。
◇
夜の秋小皿に越の黒作 「花浴び」
■「夜の秋」という季語は、夏の夜の中に秋の訪れの気配を感じ取る鋭敏さが好きだが、いざ使おうと思うと、なかなかうまくいかない。この句は、小皿に出された越後の黒作に、晩夏の中の秋を感じ取っていて、心惹かれた。黒作が秋の象徴になっているというよりも、黒作の「黒」が小皿の白さを引き出した点に感応したのではないだろうか。そんな気がした。
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アファナシエフ朗読会in湘南2009
2009-06-12 / 詩
(写真)初夏の鉄道ファン
今日は、藤沢でアファナシエフの朗読会だった。朝からでかける。ここからだと2時間弱かかる。ちょっとした旅。90分以上、司会して、日本語版の詩を朗読して、質疑応答して、最後に、ぼくの英語俳句とマエストロの最新書き下し詩のコラボレーションを行うという、客観的に見ると、かなり重労働のはずだが、不思議に疲れなかった。マエストロと突っ込んだ対話ができたせいで、元気が出たのである。英語俳句は、実質的に、処女作と言っていいが、案外通じた? マエストロは、英語の詩からロシア語の詩へと創作の軸をシフトしてきており、すでに、ロシア語の詩集を3冊出版している。5か月で300篇(100篇の聞き違いか?)のロシア語の詩を書いたそうである。マエストロの創作を追いかけるには、英語、フランス語だけでなく、ロシア語も視野に入れないといけないようだ。以下、質疑応答の中で興味深い話をピックアップして掲載する。
1.(冬月:以下T)アファナシエフさんは16歳の頃から詩を書き始められたわけですが、そのきっかけの一つに、日本の俳句を読んだ経験があります。だれの俳句を何語で読んでいたのでしょうか。
・(アファナシエフ:以下A)ソビエト時代に、2冊の俳句の本が出版されました。当時、俳句の本はソビエトの厳しい検閲下でも比較的入手が可能な本でした。この本を読んだことが俳句と出合ったきっかけで、ロシア語で出版されていました。俳句は、一見、平明な言葉で書かれていますが、深い内容を備えており、自分もこうしたものが書いてみたいということで、詩を書き始めたわけです。
2.(T)アファナシエフさんが16歳の頃というと、60年代初頭にあたるわけですが、当時、アファナシエフさんやその周囲の友人たちにとって、日本や日本文化はどのように受け止められていたのでしょうか。
・(A)わたしやわたしの周囲の友人たちは、当時、反ソビエト的でした。われわれにとって、日本は、優しい人々が住むパラダイスであり、朗読会を、仲間と行うときに、友人の一人が着物を着てきたことを覚えています。こうした朗読会では、詩のほかに俳句も朗読しました。また、こうした朗読会で、わたしの友人が次のような詩を書いたことを今でも覚えています。
Oh my Japan!
fruits and fishes
3.(T)アファナシエフさんは、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語と何ヶ国語もできますが、なぜ、詩は英語で書かれるのでしょう。詩と英語の結びつきについてお聞かせください。
・(A)この中では、ドイツ語が一番好きですが、残念ながら書くことはできません。ソビエト時代にシェイクスピアを英語で読みました。英語はとても美しい言語だと思います。また、英国のロンドンはわたしにとってdreamであり、英語で詩を書くようになった理由は、英詩がとても好きなためです。
この他、興味深い発言のみランダムに。
・人生とは自分の周りの空間のことである。これが広ければ、人生はそれだけ豊かだ。
・音楽は常に動いているが同時に不動であり、永遠とは音楽の中の和音、ハーモニーのことである。すべての作品は、結局、一つの和音に収斂する。
・証明できないから神を信じる、という感性は面白い。
・わたしは神を信じています、という人は、儀礼的に、そう言っているように感じる。
・真実は一つではなくいくつもある。わたしは考え方のヒントを提示したい。
・自分は自然を愛していると断言することはできない。森の中をCDを聴きながら散歩するが、わたしの意識は森ではなくCDの音楽に集中している。自然を意識しない。
・言葉は、意味を担い、何かを説明するだけでなく、象徴として機能する。また、創作上では、言語そのものに、インスピレーションを受ける。ある言語で、創作に行き詰まったら、別の言語で創作してみるといい。
・技術の進展は事態やものごとの「微妙なニュアンス」を奪った。たとえば、時間短縮のために取るルートが最善なのではなく、周り道こそが人生には重要なのだ。
◇
最後にマエストロが日本の朗読会のためだけに書き下してくれた3篇の詩とその日本語版を掲載する。
FOR JAPAN
I’m a sheet of paper. Whatever
I think or feel can be found
On it.
I wish I were
A blank page, a blank space,
A landscape.
This language slips through my fingers.
I held it a month ago. Now
The palms of my hands are staring at me as if
I could answer them. Nothing will
Answer them.
Is it a question?
The palms of my hands. My skin, my
Fingers.
A pack of cards. My destiny. A ceiling
And once again a sound
I don’t recognize. I don’t know
Where it comes from. A human voice
Or a note played on a flute.
It’s not a sound.
わたしは一枚の紙
わたしの考えること 感じることはみな
この上にある
わたしは
白紙になりたい 余白になりたい
風景になりたいのだ
この言葉はわたしの指から滑り落ちる
わたしはひと月前 この言葉を捕まえた 今は
両手の掌がわたしを見つめている
まるでわたしの答えを
待っているかのように
掌には何も答えないだろう
これは質問なのだろうか
わたしの掌 肌 指
一組のトランプ わたしの運命 天井
そしてふたたび音
今まで聞いたことのない音 わたしにはわからない
それが何の音なのか 人間の声それとも
フルートが奏でる楽譜の音
それは音ではない
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飴山實を読む(116)
2009-06-11 / 俳句
(写真)風景
今日は、一日、休み。なにもせず。掃除して、夕方、川を見にゆく。この頃、独りごとを言いながら歩いている人が増えた気がするが、気のせいか。携帯の普及は、人を孤独にしたか。
◇
接心のとき大寺の蟹あるく 「花浴び」
■これもおかしい。接心:禅宗で昼夜をおかず座禅に専念すること。坊さんたちの無心の修行と蟹の無心の歩き。人間は座禅しないと無心になれないが、蟹はすでに悟りの境地。俳句で笑いを考えるとき、動物と人間の関係は、一つのモチーフになる。そのズレが笑いを誘う。
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飴山實を読む(115)
2009-06-10 / 俳句
(写真)人にはそれぞれ訳がある
今日は、夕方、時間ができたので、江戸川でしばらく風に当たる。土手の草が風にあおられていた。ぼくも風にあおられて、しばらく、ぼんやりする。今日は、朝早くから仕事して、病院へ行く。フランス語のスイッチが入らず、新作詩の翻訳を検討する。なんだか、腹を抱えて笑いたいなあ。
◇
と思っていたら、ありました。
禅堂へ入らむ蟹の高歩き 「花浴び」
■笑わせてくれるなあ! 「高歩き」が絶妙の味。禅堂へ。
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飴山實を読む(114)
2009-06-09 / 俳句
(写真)どくだみ原
いよいよ明日、アファナシエフ詩集『乾いた沈黙』発売! マエストロが、朗読会のために新作詩を書き下してくれたので、ぼくの英語俳句とコラボレーションを試みてみるつもりでいる。マエストロは、常に、意欲的だ。
◇
葛山を嵐のいづる踊りかな 「花浴び」
■壮絶なシーンで惹かれた。映画の一シーンのようだ。
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飴山實を読む(113)
2009-06-08 / 俳句
(写真)一服
昨日は、アファナシエフに会ってきた。詩集のことを非常に喜んでくれて、訳者としては、これに勝る喜びはなかった。アファナシエフは、ピアニスト、指揮者としては、超一流であり、その演奏解釈は独創的なものだが、詩人・小説家として正当な評価を受けているとは言い難い。今度の詩集出版が彼のもう一つの側面である文学活動の評価につながればいいと思っている。
美しいクイーンズイングリッシュを話すアファナシエフだが、ナチュラルスピードで話されると、こちらの力不足で、50%くらいしか聞き取れない。マエストロを前にしてあがってしまったこともあり、言いたいことの40%も言えなかった。非常に悔しい。この人は表面的な話題には、あまり興味を示さず、本質的に謙虚で、しかも、驚くほど気さくで陽気だった。
翻訳者というのは、例外もあるが、たいてい、その言語を自由にしゃべれない。これは、当該の言語を日本語のフィールドで考えるせいだが、この2か月、ネイティブと話してみて、また、昨日、アファナシエフと会ってみて、日本語だけで考えていると、決定的な点を取り逃がすのではないか、と思うようになってきた。もちろん、日本語でしっかり考えられることは前提だが。
◇
六十路にして古風鈴の音に凝れる 「花浴び」
■いい歳の取り方だなあと思って惹かれた。この「六十路にして」という言葉のニュアンスは、60歳になって初めて古風鈴の良さがわかった、ということだろう。年齢を重ねることで初めて理解できることがあるという事実は、なんだが、とても面白い。年を取るというのは、どういうことなのか、事物の方から考えてみることができるからだ。逆に、年を取ることで、失うものは何か。これも、事物の方から考えてみると、とても不思議な気がする。
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飴山實を読む(112)
2009-06-06 / 俳句
(写真)白躑躅
さてと、蒸し暑き日哉。午後、歯医者。十数年前の治療がことごとく問題化している。ファミレスで仕事。アファナシエフの詩にインスパイアされて、英語俳句をいくつか作る。英語俳句については、まったくの模索状態。シラブルの総数だけ意識している。
◇
蕎麦湯注ぐ手姿のよき涼夜かな 「花浴び」
■蕎麦屋のおかみさんだろうか、同行の女性だろうか。とにかく、感じの良い人であろう。「手姿のよき涼夜」という言葉で、その人のイメージを彷彿させているところに惹かれた。涼しげな目もと、涼しげな美人といった清楚なイメージが浮かぶ。こうした美的なイメージは、ある程度、距離のある人に対して現れる一瞬のイメージであろう。だからと言って、これが、非現実的とは言えないし、逆に、イメージで現実を縛る必要もないだろう。
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飴山實を読む(111)
2009-06-05 / 俳句
(写真)行列の先には
ざっと、太極拳入門書を読む。著者の所属する団体が近くの体育館で教室を開いているのを知る。太極拳には、thing/Dingとして疎外され分裂した心身を調整し、統一する力があるように感じる。「ストレス解消」という以上のなにものかが。
◇
さみだるゝ鳥居のさきは蚕神 「花浴び」
■蚕神という言葉は、初めて知ったが、子どもの頃によく聞いた「お蚕様」という言葉を思い出した。蚕は、はじめ、どうも、掴めなかったが、慣れてくると、非常に大人しく、気品さえ感じられる静かな虫で、指先でつかんだときの冷たい感触を今も憶えている。「さみだるゝ鳥居」という言い回しに惹かれた。この鳥居はさほど大規模なものではないだろう。
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フランス語になった俳人たち(10)
2009-06-04 / 俳句
(写真)Valery Afanassiev Colleced Poems Dry Silence(裏表紙英語版)
朝から蒸し暑い。久しぶりに独仏会話を聴く。珈琲を淹れて仕事。夕方、介護保険の更新調査に立ち会う。郵便を出しに行った帰り、歩道橋から下の列車が通過するのをしばらく眺める。
◇
閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉「奥の細道」
Le cri des cigales
vrille la roche-
quel silence!
※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002
蝉の声が
岩に突き刺さる
なんという静寂
■原句の「しみ入る」は液体が染み込む感じだが、フランス語のvrillerは錐で突き刺すことで、岩に声が何本も突き刺さるイメージがあって面白い。
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