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フランス語になった俳人たち(11)

■旧暦5月22日、日曜日、

(写真)日本美人

昨夜、蒸し暑くてよく眠れず。朝早く起きて、散歩。ジョナサンで、西郷信綱の『梁塵秘抄』を読む。キリマンジェロが旨かった。帰宅して、掃除。今年は、鉢のミニ薔薇がよく咲いた。夕方、また、散歩。喫茶店でロバート・フロストの詩を検討する。

考えてみると、アファナシエフと朗読を一緒にできたのは、幸運なことであると同時に、ある種の感慨を覚える。2005年の初夏、初めて人前で自作を朗読したとき、それは、韓国の詩人たちと一緒だったのだが、このとき、朗読のモデルにしたのが、アファナシエフのピアノ演奏スタイルであり、音に対する彼の思想だった。アファナシエフから、音が生まれそして帰ってゆく母なる沈黙の重要性を学んだ。沈黙は何もないことではない。このときから、朗読することで、音の背後に広がる沈黙を表現することをめざしてきた。金曜日に、そのマエストロの前で、朗読できたことは、4年越しの実験の成果を問うことにもなったと思う。ぼくが主役ではないので、控え目に、自己表現したつもりだが、彼には、ぼくの意図が伝わったと感じた。頷きながら、ぼくの朗読を聴いていたからである。



やがて死ぬけしきは見えず蝉の声  芭蕉「猿蓑」


Les cigales vont mourir-
mais leur cri
n'en dit rien


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002


蝉はやがて死ぬ

だが声には
そんな気配はまったくない


■英国人のO君がこんな事を言っていた。英語と日本語の違いを情報面から言うと、一センテンスあたりの情報量は、日本語の方が多いと言う。英語では、情報量が多くなると、混乱するので、センテンスを二つに分けるという。フランス語の感覚も基本的には、同じではないだろうか。

日本語の俳句は、「やがて死ぬけしきは見えず」と「蝉の声」で形の上では切れているが、取り合わせの句ではなく一物仕立てである。蝉の声という一つのテーマを詠んでいるからだ。この句には情報が二つ入っている。一つは。蝉はやがて死ぬこと、ふたつは、その気配は声には感じられないこと。フランス語版では、情報の面から、ふたつに切っている。もちろん、取り合わせにしているのではなく、テーマは一つである。日本語版と異なるところは、「蝉の声」という季語の扱い方だろう。

同じ主題を扱いながら、日本語版は、音楽的な配慮から、季語の前に間を入れているのに対して、フランス語版は、音楽的配慮がないとは言わないが、それよりも、情報内容という点から、原句を二つのセンテンスに分けている。
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