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アファナシエフのコンサート2009

■旧暦5月29日、日曜日、、夏至、父の日

(写真)unknown flowers in early summer

今日は、体調すぐれす、ゴロゴロしていた。木曜のアファナシエフのコンサートについてつらつら考える。

プログラムは、ドビュッシー:前奏曲、第6曲「雪の上の足跡」、プロコフィエフ:風刺(サルカズム)、第2曲「間のびしたアレグロ」、ショスタコーヴィッチ:24の前奏曲、第14曲変ホ短調、プロコフィエフ:風刺(サルカズム)第1曲「嵐のように」、ドビュッシー:前奏曲、第10曲「沈める寺」*ムソルグスキー:音楽劇「展覧会の絵」

いつもの絹のようなタッチと音が音を聴く沈黙を堪能。ムソルグスキーの音楽劇は、マエストロのオリジナル脚本と演技、ピアノ演奏。マエストロの思いの丈を聴いたような気がした。

劇の中でこんな趣旨のことを言っていた。

・古城は時代とともに作り変える必要がある。作曲家の意図を忠実に再現しようとする演奏家は、古城に住んでいるつもりだが、実はそうではない。ベートーヴェンが弾いた音楽は二度と再現できない。古城は、時代とともに変わっていくし、変えなければならない。だが、同時に、古城は不変である。古城とは音楽の比喩だろう。

朗読会のときも言っていたが、音楽は永遠である、という考え方が根本にはあるように思う。音楽が作曲家の死後も残るという意味で永遠なのではなく、音楽は不変だという意味で永遠だ、と。だが、同時に、音楽は時代とともに変化するとも。

アファナシエフの思想の核にある永遠=不変なるもの=音楽(究極的には一つの和音)=変化するもの、という思想は、よくわからない。これをこう考えることができるかもしれない。永遠には、変化する相と不変の相がある。言い換えると、時間の相と空間の相がある、と。

たとえば、音楽は独立した論理を持っているので、その意味では、演奏家の母親が亡くなった直後に弾いたブラームスも、平静なときに弾いたブラームスも、音楽の論理という点では変化がない。しかし、アファナシエフが弾くブラームスとポリーニが弾くブラームスでは、音楽の論理は同じはずなのに、同じようには聞こえない。そこには、演奏家の解釈が入るからだ。論理は空間と関係しており、解釈は時間と関係しているのかもしれない。ただ、これは、ある意味で、分析的な見方かもしれない。

マエストロは、どんな音楽も結局は、一つのハーモニーに還元されると述べている。音楽の独立した論理が永遠不変というよりも最終的に凝縮された和音が永遠不変なのだろう。

これを別の観点から考えてみる。芭蕉に「不易流行」という思想がある。不易流行は、物事には、不易の相(永遠不変)と流行の相(変化)がある。俳句にも流行の句と不易の句があって相互に対立しているというのが一般的な理解だが、ぼくの師である長谷川櫂によれば、流行即不易であり、不易即流行であるという。

『去来抄』は、その箇所を以下のように伝える。

芭蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云有り、是を二つに分て教へ給へる。其元は一つ也。不易を知らざれば基たちがたく、流行を知らざれば風新らたならず。不易は古によろしく、後に叶ふ句成故、千歳不易といふ。流行は一時ヽの変にして、昨日の風今日宜しからず、今日の風明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやる事をする也。

人は生まれ、大きくなり、子どもを生んで、やがて死ぬ。時の流れに浮かんでは消えてゆく人というものの姿を人としてとらえれば、この宇宙は変転きわまりない流行の世界である。ところが、変転する宇宙を原子や分子のような塵の次元でとらえなおすと、人の生死は塵の集合と離散にすぎない。…この塵自体は減りもしなければ増えることもない。…人の生死にかぎらず、花も鳥も太陽も月も星たちもみなこの世に現れては、やがて消えてゆくのだが、この現象は一見、変転きわまりない流行でありながら実は何も変わらない不易である。『「奥の細道」を読む』(長谷川櫂著 ちくま新書2007年 pp.188-189)

音楽に即して言えば、時代によって、多様な解釈が生まれ、その可能性に絶えず開かれながらも、音楽は、何一つ変わらない。あらゆる音楽は最終的に一つの和音に還元されるという考え方から言えば、和音(不易)こそが永遠不変であり、解釈は、あるいは作品自体も、和音の時代的な現れ(流行)、と言えるのではないだろうか。したがって、マエストロにしてみれば、古城は時が経てば修理しなければならないが、ムソルグスキーの意図も、自分の解釈も、一つの<流行>という点では同一次元にあるのだろう。根本には、永遠不変の和音が一つ鳴っているのだ。

朗読会のとき、西欧の俳句と日本語の俳句の決定的な違いの一つは、数の感覚の違いだという話をしたが、これにマエストロは反応していた。西欧の俳句は、名詞を用いるとき、たいていの場合、複数にする。日本語の俳句を翻訳するときでも、原句の解釈を複数で行う。これは、ネイティブに言わせると、複数にすることで、空間的な広がりを表現するためだという。あくまで言葉で空間の広がりを表現しょうとするわけだ。ところが、日本語の俳句は、名詞をたいてい、単数、一つでイメージする。視点を一つに集約することで、逆に、言葉の外に広がる沈黙の空間を感じさせるためである。いわば、弁証法的な発想が根本にある。だが、こうして、マエストロの考え方を検討してみると、名詞を一つに還元することは、音楽を一つの和音に還元する感受性と同質のものがあるのかもしれない。永遠不変を志向するという点で同質のものが。
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