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飴山實を読む(108)

■旧暦4月27日、木曜日、小満、

(写真)冬の形見

午後から、久しぶりに何も予定に入れず。ぼーっと過ごした。今週は、土日出ていたので、なんだか、疲れるな。



奈良の夜は女人の匂ひ花あしび   「花浴び」

■上質なエロスを感じて惹かれた。俳句で色香を詠むのは難しいが、これは夜の古都の空気を詠んで、上質なエロスを感じさせる。遠い昔、奈良で出会ったかも知れない女たち。なまなましい存在の横溢を感じた。




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フランス語の俳人たち:Daniel Biga(8)(9)

■旧暦4月26日、水曜日、

(写真)borne to play

朝、病院へ。病院というのは集中できる。妙な行きつけができてしまった。今日は、夏の太陽の日差し。アファナシエフから先日、メールがあって、ポエトリー・リーディングで詩や人生について君と語り合いたいと言ってきた。めったに返信をよこさない人だけに嬉しいもんである。




pédalant seul
avec le vent
et le fleuve


自転車に
伴走するのは
風と川だけ


■初夏の河畔を自転車で走るのは気持ちがいいだろうと思う。季節は具体的に書いていないが、初夏が合うと思う。


l'ombre
et le stylo se rejoignent
au bout de la plume



と万年筆
ペン先で一つに


■筆者はパソコンじゃなく、ペンで書くという行為に愛着を持っているのだろう。そして、遅筆なんじゃないか。夜、じっとペン先を見つめていないと出てこない発想と思う。

※これで、Daniel Bigaは終了。フランス本国だけじゃなく、フランス語圏から、広く俳人を検討してみようと思っている。
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フランス語になった俳人たち(7)

■旧暦4月25日、火曜日、

(写真)無題

日曜日は、時間が取れたので、A句会に参加。A氏、解説が、なかなか、板についている。その後、飲み会。みなさんと話せて楽しかった。どうも、ぼくは、年齢より若く見えるらしく、生年月日を言ったら、隣の鎌倉の俳人に驚かれた。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。懇意の俳人K氏より、虚子編の歳時記の面白さを聞く。同じ結社の俳人で、詩人でもあるM氏より、興味深いフランスの詩人、アンドレ・デュ・ブーシェの詩集を送っていただく。少し読んだが、沈黙が深い詩群である。その意味では、ツェランに似ているが、ツェランよりも俳句に近い気がした。


わたしの息である不在がまたふりはじめる
紙のうえに 雪のように 夜が現れる
わたしは書く 能うかぎりわたしから遠く


André du Bouchet「流れ星」全行


地球が雪になって降る
太陽のように白い
大きな皿


André du Bouchet「朝」部分

以上、吉田加南子訳



掬ぶより早歯にひびく泉かな  芭蕉(貞亨年間(41歳~44歳)頃)


Avant que je l'avale
l'eau de la source
a bruissé sur mes dents


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002


わたしが飲み込まないうちに
泉の水は
歯の上でかすかな音を立てた


■これも難しい翻訳だったろう。「掬ぶ」は、手で水をすくうこと。だから、avaler(swallow、飲む、飲みこむ)とは微妙に異なる。ここをどう考えるかは、なかなか難しい。日本語に直したとき、「飲み込む前」とするか、「飲む前」とするかでは、同じ、avalerでも情景が違ってしまう。「飲み込む前」なら水を口に含んでいるから、その水が歯の上でかすかな音を立てたと感じることは、詩的論理としては破綻しない。Avant que je l'avaleを「飲む前に」と捉えると、まだ、水は身体と触れていない。そのため、歯の上で水が音を立てる状況が理解できなくなる。フランス語の訳者は、ぼくの推測では、前者の泉の水を口に含んだ状況を想定して訳したのではないかと思う。そうしないと、詩的な論理として一貫しないからだ。しかし、芭蕉の原句は、口に含むどころか、手にすくう前の状況を詠んでいる。つまり、泉の水を見た瞬間に、口の中に水が溢れてかすかな音を立てたと感じたということだろう。もしフランス語の訳者が、芭蕉の原句の意味を理解していたら、avalerとは違う「水を手にすくう」というフレーズを使ったのではないだろうか。

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飴山實を読む(107)

■旧暦4月24日、月曜日、

(写真)夏木

旅に出たいなあ。夏木立の森へ。今日は、いい天気だった。靴箱を組み立て、夕食を手伝う。叔母が、高齢者*持病という条件に一致するので、ウィルス用のマスクを調達しようとしたら、どこにも置いてない。早くも売り切れである。



大いなる鐘にゆきあふ朧かな   「花浴び」

■朧の中から大きな鐘が見えてきた。作者の動きが見え、なにか、物語が始まるような気配があって惹かれた。音のことは何も書いていないが、朧の中で、この鐘が鳴る音まで想像してしまう。
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飴山實を読む(106)

(写真)むらさきつゆくさ

今日は、早く起きたので、散歩。ミスドーに寄ってフランス語を考える。初めて、訳注の散文を検討してみたが、ドイツ語のように、凝った言い回しをするなという印象だった。書き手にもよるだろうけど。

新型インフルエンザの衆議院選挙への影響はどうなるのか、一つの重要な要因になるかもしれない。




たつき見え艀のなかも花野かな
  「花浴び」

■この場合、「たつき」とは斧の一種だと思う。繋がれた小舟の中も花野という情景は、非常に詩的で惹かれた。この艀は、相当長い間、放置されていたのだろう。
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フランス語になった俳人たち(6)

■旧暦4月23日、土曜日、

(写真)公園のソリスト

リコーダーの音色は昔から好きだが、たまたま、公園でぼーっとしていたら、バロックの曲らしいものを練習しているお兄ちゃんがいた。





稲妻に悟らぬ人の貴さよ
   芭蕉「己が光」

Devant l'éclair―
sublime est celui
qui ne sait rien!

※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002

稲妻が目の前に
尊いのは
悟らない人である


■「悟る」という日本語を「saisir」(捕まえる、把握する、理解する)で翻訳しているところが面白かった。この句には、訳者の注がついている。「松尾芭蕉は、自らも禅に帰依しており、「悟る」という動詞を二重の意味で使っている。一つは「理解する」(comprendre)であり、もう一つは、至高の存在となる(réaliser)ことである。悟らない者が、真の知を有するというのは、禅の重要なパラドックスである」日本語テキストのたいていの理解では、生悟りなら悟らない方がいい、といったもの。

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フランス語の俳人たち:Daniel Biga(7)

(写真)虹二重

■当面の目標は、あるフランス語の小説を訳出することなのだが、まだ、散文が訳せない。俳句→詩→散文、という感じで、徐々に進めていこうと考えている。当面、これに集中するために、「Jack Kerouacの俳句」と「ドイツ語の俳人たち」は、それぞれ、英語版ドイツ語版に移行しました。ご興味のある方はそちらへ。それぞれ、ごく短いコメントのみです。




mangeant des olives
crachant des noyaux
face à l'orage


オリーブを食べて
種を吐き出す

夕立


■face à l'orage(夕立に遭う)というフレーズが効いているように思った。「orage」は雷雨、にわか雨、嵐の意でもあるから、かなり激しいものなのだろう。「mangeant des olives」(オリーブを食して)のオリーブは、やはり複数である。日本語の俳人なら、オリーブを食べたとしても、一つと作るような気がする。
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フランス語になった俳人たち(5)

(写真)初夏の花(名称不詳)


■病院の待ち時間に、フランス語を検討してみた。

五月雨に鶴の足短くなれり   「俳諧東日記」延宝9年(天和元年)、芭蕉38歳の作。

しかし、こんな初期の芭蕉の句、よく知っているなあ。


Sous la pluie d'été
racourcissent
les pattes du héron


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002

夏の雨
鷺の足が
短くなる


■激しい雨で水嵩が増し鶴の足が隠れてしまったのだろう。これは、難しい翻訳だろう。梅雨がないフランスで、五月雨は「Sous la pluie d'été」(夏の雨の下)と訳されている。水嵩が増すほどの五月雨の激しさは、ここからはわからない(のではないか)。鶴が鷺になっている。フランス語で、鶴は「une grue」である。これは単純な間違いなのか、フランス人には、héron(鷺)の方が河川などにいるところを想像しやすいと判断したのか。おそらく、夏の雨に打たれて川嵩の増した情景には、鶴より鷺の方がフランス人にはしっくりくるのではなかろうか。確かなことはわからない。

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飴山實を読む(105)

■旧暦4月20日、木曜日、、出雲祭

(写真)薔薇

下の八百屋で買ったアスパラガスが非常に美味だった。穂先が茎よりも旨い。福島県産。午前中、叔母を病院へ。お年寄りの付き添いは、ハプニング続出。いささかくたびれた。その後、仕事。合間を見て、筋トレなど。




蜂の巣のころがつてゆく秋の風
  「花浴び」

■秋風という実体のないものが、蜂の巣をころがすことで可視化され、軽く音を立てている様子まで見えてきて惹かれた。巣は空であろう。その軽い質感までも伝わってくる。
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フランス語の俳人たち:Daniel Biga(6)

■旧暦4月19日、水曜日、

(写真)昭和の店

幼稚園、小学校のころは、こういう店が子どもの溜まり場で、用もないのに、よく行ったものだった。友だちのだれかがいるからである。自販機は、当時はなかったから、もっと、店先はカラフルだった。この店は駄菓子屋ではないが、当時の駄菓子屋の雰囲気が残っている。




un brin de coriandre
dans ma dent creuse
voyage en Orient


コリアンダーの小枝を
楊枝代わりに
東洋への旅


■かなり日本的に意訳した。コリアンダーは、インド原産の香辛料だから、東洋への旅を想像しているのだろうか。




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