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フランス語になった俳人たち(7)

■旧暦4月25日、火曜日、

(写真)無題

日曜日は、時間が取れたので、A句会に参加。A氏、解説が、なかなか、板についている。その後、飲み会。みなさんと話せて楽しかった。どうも、ぼくは、年齢より若く見えるらしく、生年月日を言ったら、隣の鎌倉の俳人に驚かれた。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。懇意の俳人K氏より、虚子編の歳時記の面白さを聞く。同じ結社の俳人で、詩人でもあるM氏より、興味深いフランスの詩人、アンドレ・デュ・ブーシェの詩集を送っていただく。少し読んだが、沈黙が深い詩群である。その意味では、ツェランに似ているが、ツェランよりも俳句に近い気がした。


わたしの息である不在がまたふりはじめる
紙のうえに 雪のように 夜が現れる
わたしは書く 能うかぎりわたしから遠く


André du Bouchet「流れ星」全行


地球が雪になって降る
太陽のように白い
大きな皿


André du Bouchet「朝」部分

以上、吉田加南子訳



掬ぶより早歯にひびく泉かな  芭蕉(貞亨年間(41歳~44歳)頃)


Avant que je l'avale
l'eau de la source
a bruissé sur mes dents


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002


わたしが飲み込まないうちに
泉の水は
歯の上でかすかな音を立てた


■これも難しい翻訳だったろう。「掬ぶ」は、手で水をすくうこと。だから、avaler(swallow、飲む、飲みこむ)とは微妙に異なる。ここをどう考えるかは、なかなか難しい。日本語に直したとき、「飲み込む前」とするか、「飲む前」とするかでは、同じ、avalerでも情景が違ってしまう。「飲み込む前」なら水を口に含んでいるから、その水が歯の上でかすかな音を立てたと感じることは、詩的論理としては破綻しない。Avant que je l'avaleを「飲む前に」と捉えると、まだ、水は身体と触れていない。そのため、歯の上で水が音を立てる状況が理解できなくなる。フランス語の訳者は、ぼくの推測では、前者の泉の水を口に含んだ状況を想定して訳したのではないかと思う。そうしないと、詩的な論理として一貫しないからだ。しかし、芭蕉の原句は、口に含むどころか、手にすくう前の状況を詠んでいる。つまり、泉の水を見た瞬間に、口の中に水が溢れてかすかな音を立てたと感じたということだろう。もしフランス語の訳者が、芭蕉の原句の意味を理解していたら、avalerとは違う「水を手にすくう」というフレーズを使ったのではないだろうか。

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