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芭蕉の俳句(186)

■旧暦5月27日、月曜日、

(写真)茅の輪

茅の輪は左・右・左と三回くぐるものらしい。この画像は、近所の神社のもの。

赤塚不二夫の『レッツラ・ゴン』を読む。赤塚不二夫が最終的にたどり着いた笑いの境地ということで、以前から興味があった。読んでみると、'72年から'73年にサンデーで連載された作品で、ぼくのちょうど小学校から中学校にかけての時期と重なり、どこかで読んだ記憶がわずかながら残っていた。赤塚自身は、「おそ松くん」でユーモアを、「天才バカボン」でナンセンスを、「レッツラ・ゴン」でシュールに至ったと述べていたらしい。レッツラを読むとまず驚くのは、キャラクターの表情の豊かさとその躍動感だ。この絵の描き方は、手塚治虫を継承しているように感じた。途中、何度か、笑いだしたら止まらなくなって困った。「ばかばかしさ」と「くだらなさ」と「過激さ」が混在していて、昼寝したら、夢にまで出てきた。ここまで「くだならい」マンガをつきつめるのは、ある意味、偉大で、よくよく考えてみると、「くだらない」という価値判断をわれわれがしているとき、われわれは「社会」の側に立っているのだ。いうなれば、社会のエスタブリッシュメントの目線になっている。赤塚のマンガは徹底して、ここから外れていく。往々にして芸能が高尚な芸術に昇華していくプロセスには、権力と密通していくプロセスが入り込むが、赤塚マンガには、これが感じられない。とことん「くだらない」のである。



傘に押し分け見たる柳かな  (炭俵)

■元禄7年作。芭蕉のこの句は、対象に自分が軽く働きかけることで柳の柳らしさを捉えている。自分の動きを詠みながら対象の特質を把握している。そこに惹かれた。当時は、ビニール傘ではなく、唐傘だから、硬い木の枝なら破れてしまったのだろう。

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