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ジャンヌ・ダルクという愛称で呼ばれたポーランド人女性がいた。
オーギュスト・レンツAugust Renzと名乗り、ポーランドに侵攻するナポレオン軍を相手に勇敢に戦った女性兵士だ。
戦場で銃弾に倒れたとき、彼女が上官に「私は女なのです」と言うので、傷口を確かめるためにも衣服をのけてみると、それが事実だということがわかった。それまで、誰も彼女が女だとは気づかなかったのだ。
彼女は他の男性兵士の重傷者たちと一緒に隊の後方に放置しておかれ、その後、手術すべき病院に搬送されたが、すでに手の施しようがなかった。1813年、9月18日、三週間後、苦しんだ後に他界。
オランド大統領のかつての伴侶、ジャーナリストのヴァレリー・トリヴェレールは、パリマッチ誌に彼女の追悼記事を書き、それを送信している写真を撮影している。
オーギュスト・レンツことエレノール・プロシャスカは、貧しい将校の娘として生まれた。母親が亡くなると、父親は彼女を孤児院に入れた。成長すると多くの孤児たちは、使用人になるのが一般的だったが、彼女は志願兵となり武器をとって戦う道を選んだ。自分の男性的なところを強調するようにし、女性であることを隠した。志願兵には学生たちも多かったが、軍隊の中枢は芸術家や農民により構成されていた。
性を隠して戦った女性兵士は、彼女エレノールEleonore Prochaskaだけではなかった。他にも二人の女性がいたが、そのうちの一人は後に結婚し、子供を作っている。
エレノールの努力は無駄になることはなかった。プロシャ軍は、長い時を経て、初めてナポレオン軍に勝利したからだ。これ以来、六カ国同盟(ロシア、オランダ、スエーデン、プロシャ、オーストリア、それにいくつかのドイツの小連邦)の勝利が続くことになり、彼女は「ポツダムのジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、女性の英雄として祝福されるようになった。
このことにフランスの極右政治家、ジャン・マリー・ペンは憤慨、(ジャンヌ・ダルクというフランスの英雄の名前を使うのは)著作権の侵害だと狼煙を上げた。
しかし、彼女の伝説は広まり、その栄誉を称える詩が書かれ、記事が書かれた。
ベートーヴェンは、彼女に曲を捧げた。
エレノールの町、ポツダムには、彼女の記念碑が建てられている。
18 septembre 1813. Surnommée la Jeanne d'Arc de Potsdam, Eleonore tombe sur le champ de bataille.
http://www.lepoint.fr/c-est-arrive-aujourd-hui/18-septembre-1813-lieutenant-je-suis-une-femme-s-ecrie-le-soldat-auguste-arenz-en-s-ecroulant-17-09-2012-1507261_494.php#xtor=CS1-32
Johanna Stefen et Anna Lühring