ボードレールは、サンドより長く生きたように思っていたが、実際はサンドより15歳も年下であり、サンドより9年も早くこの世を去っている。ボードレールがサンドを嫌悪していたことは有名だが、その個人的理由として、彼の愛人の女優が予定されていた主演の役を降ろされた原因がサンドにあると誤解し、彼女に恨みを抱いていたことが指摘されている。しかし、もちろん恨みの原因はこれだけではなく、1848年の二月革命前と以後のボードレールの政治的思想の転換も関係していたのではなかと推測される。
ダンディとして知られ、ゴーチエと親交を結んだ詩人。
7歳で父を亡くし、養父を嫌った少年。サンドも4歳で父を亡くしている。若くして父親の遺産を食い潰し、禁治産者の扱いを受け、40代前半からは、若い頃の放蕩が原因の病に苦しんだ。
愛した女性への不信感とすべてに対する底なしの絶望とアンニュイ。
実生活では、借金に苦しみ、母親に生活費を無心する極貧の日々。社会の底辺に生きる貧者の詩人としてのプライドと懊悩。これらすべてが混淆したボードレールのペシミズムは、生半可のものではなかったと思われる。
詩人は、民衆を信じ、裏切られ、深く傷ついた。作品は検閲の憂き目を見て出版されず、私生活では貧困に苦しんだ。他方、人類の進歩と民衆を信じ、彼らの立場を無条件で擁護し、48年以降も売れる流行作家として邁進を続けるサンド。ボードレールは、サンドが女であるがゆえに一層、豊かな創作活動から生まれたサンドのいわば健全な理想主義を許すことができなかったのではないだろうか。
----読書メモ----
『フランスロマン主義と人間像』篠田浩一郎 未来社 1965
ボードレール(1821-1867)は、1846年には25歳、二月革命の2年前は、人間苦悩という思想を抱いていた。
5月発表の美術評論『1846年のサロン』のなかに『ロマン主義とはなにか」の章を設けている。
ロマン主義に、内面性、近代性、色彩性を要求。
近代芸術:「内密性」「神秘性」「色彩」「無限への憧憬」
ドラクロワに人間苦悩の表現をみた。これを機に、詩人は個人的立場から出て、歴史と向き合う。
ドラクロワの政治的立場が変化するのは、1846年のサロン後、一年半の間であろう。(p178)
「二月革命は詩人の生涯に刻印を押した。」(ジャン・カスー、p232)
ボードレールは二月革命までは「民衆を愛そう!」をスローガンに、プルードンやブランキの思想に共鳴していた。ところが、民衆の自重を望んでいたにもかかわらず、民衆はブルジョワの挑戦に乗ってしまい、二月革命は達成されなかった。民衆の狂気とブルジョワの狂気。これ以後、絶望したボードレールは、二月の理想を放棄。徹底したペシミストとなり、進歩の思想を否定。『悪の華』は「人間絶望の歌」といわれている。
1848年以降、ボードレールは「民衆」という言葉を使わなくなり、「貧しい人々」と呼ぶようになる。
「民衆を愛そう」ではなく「貧しい人たちを殴ろう」。物乞いを殴って殴って殴り倒す。すると乞食もついに猛然と殴り返してくる、そのとき、詩人は叫ぶ:「君と僕は平等だ。どうか僕の財布を君と分かつ名誉を許してくれたまえ、」と。
人間は愛し合う前に、おのおのが愛し合うに値しなければならないのではないか。そうでなければ、人類はいつまでたっても、進歩と反動のシーソーゲームを繰り返すだけだ。「他人と平等であることを自ら証明する者だけが他人と平等であり、みずから自由を征服しうる者のみが、自由に値する。」人類はこのとき初めて進歩の道に入り、人間苦悩は、そのとき初めて
救われるだろう。
1852年 新憲法 出版法 検閲
『ラ・プレス』紙のような商業的、自由主義的な新聞まで廃止に。
1852-53 サバチエ夫人へのプラトニックな愛。
1853年 信仰の危機 「私には神や天はもう関係ありません」
母への手紙
三月 21才で関係を持った黒人混血女性のジャンヌ・ヂュヴァルと離別 ジャンヌ病で死去
「私をアドミレ(尊敬)しない」「何事も学ぼうとしない」人間とこれ以上生活を続けるのは耐え難かった。
ボードレールの女性蔑視や幻滅は、妻ジャンヌを起因としている。
ボードレールの悲劇 1 政治的な理想の消滅 2 ジャンヌとの別離
3 財政上の物質的欠乏 借金 貧困
ダンディとして知られ、ゴーチエと親交を結んだ詩人。
7歳で父を亡くし、養父を嫌った少年。サンドも4歳で父を亡くしている。若くして父親の遺産を食い潰し、禁治産者の扱いを受け、40代前半からは、若い頃の放蕩が原因の病に苦しんだ。
愛した女性への不信感とすべてに対する底なしの絶望とアンニュイ。
実生活では、借金に苦しみ、母親に生活費を無心する極貧の日々。社会の底辺に生きる貧者の詩人としてのプライドと懊悩。これらすべてが混淆したボードレールのペシミズムは、生半可のものではなかったと思われる。
詩人は、民衆を信じ、裏切られ、深く傷ついた。作品は検閲の憂き目を見て出版されず、私生活では貧困に苦しんだ。他方、人類の進歩と民衆を信じ、彼らの立場を無条件で擁護し、48年以降も売れる流行作家として邁進を続けるサンド。ボードレールは、サンドが女であるがゆえに一層、豊かな創作活動から生まれたサンドのいわば健全な理想主義を許すことができなかったのではないだろうか。
----読書メモ----
『フランスロマン主義と人間像』篠田浩一郎 未来社 1965
ボードレール(1821-1867)は、1846年には25歳、二月革命の2年前は、人間苦悩という思想を抱いていた。
5月発表の美術評論『1846年のサロン』のなかに『ロマン主義とはなにか」の章を設けている。
ロマン主義に、内面性、近代性、色彩性を要求。
近代芸術:「内密性」「神秘性」「色彩」「無限への憧憬」
ドラクロワに人間苦悩の表現をみた。これを機に、詩人は個人的立場から出て、歴史と向き合う。
ドラクロワの政治的立場が変化するのは、1846年のサロン後、一年半の間であろう。(p178)
「二月革命は詩人の生涯に刻印を押した。」(ジャン・カスー、p232)
ボードレールは二月革命までは「民衆を愛そう!」をスローガンに、プルードンやブランキの思想に共鳴していた。ところが、民衆の自重を望んでいたにもかかわらず、民衆はブルジョワの挑戦に乗ってしまい、二月革命は達成されなかった。民衆の狂気とブルジョワの狂気。これ以後、絶望したボードレールは、二月の理想を放棄。徹底したペシミストとなり、進歩の思想を否定。『悪の華』は「人間絶望の歌」といわれている。
1848年以降、ボードレールは「民衆」という言葉を使わなくなり、「貧しい人々」と呼ぶようになる。
「民衆を愛そう」ではなく「貧しい人たちを殴ろう」。物乞いを殴って殴って殴り倒す。すると乞食もついに猛然と殴り返してくる、そのとき、詩人は叫ぶ:「君と僕は平等だ。どうか僕の財布を君と分かつ名誉を許してくれたまえ、」と。
人間は愛し合う前に、おのおのが愛し合うに値しなければならないのではないか。そうでなければ、人類はいつまでたっても、進歩と反動のシーソーゲームを繰り返すだけだ。「他人と平等であることを自ら証明する者だけが他人と平等であり、みずから自由を征服しうる者のみが、自由に値する。」人類はこのとき初めて進歩の道に入り、人間苦悩は、そのとき初めて
救われるだろう。
1852年 新憲法 出版法 検閲
『ラ・プレス』紙のような商業的、自由主義的な新聞まで廃止に。
1852-53 サバチエ夫人へのプラトニックな愛。
1853年 信仰の危機 「私には神や天はもう関係ありません」
母への手紙
三月 21才で関係を持った黒人混血女性のジャンヌ・ヂュヴァルと離別 ジャンヌ病で死去
「私をアドミレ(尊敬)しない」「何事も学ぼうとしない」人間とこれ以上生活を続けるのは耐え難かった。
ボードレールの女性蔑視や幻滅は、妻ジャンヌを起因としている。
ボードレールの悲劇 1 政治的な理想の消滅 2 ジャンヌとの別離
3 財政上の物質的欠乏 借金 貧困