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格差社会6

2005年04月18日 16時39分43秒 | 社会全般
最近、またニート問題が流行りだしてきたのかな。色々な人が書いてますから、またしても後出しなのですが、シリーズなので書いてみたいと思います。一応、ニートの事は以前書きましたので、去年の古い記事ですが、記しておきます。

ニート
ニート再燃


現在そして今後の問題として、どのように捉えて行けばよいか、また、希望格差社会ということと一緒に考えてみたい。
まず、ニートにも様々な理由があり、一概に同じような対策で解消できるとも言えないし、総括的な制度・政策では難しいということ。昨年ネット上でいくつか議論もありましたが、はっきり言うと心の病気になってしまい、就業できない人に、「お前は働けるのに働かないんだろう」と言ってみても仕方がない、ということです。他にも、極東ブログさんが「ニートについて」でご指摘の通り、家事手伝いという人々も存在するわけで、これも昔から存在してました。動物だって、群れの個体数が増加して食物獲得が厳しくなると、過度のストレス状態(ストレス環境)となり、弱い個体は死に易くなるらしい。そりゃそうだろうなと思う。人間だって生物なんだから、ストレス状態で色々な病気も起こるだろう。まさか、そのまま死ぬことを放置する訳にはいかないので、これを救済できるような制度とか環境も必要になる、ということは言えます。


フリーターもそうなのですが、問題は、このようなニートの全体の数が多い、ということで、昔レベル程度に戻せるようにどうにかやってみましょう、ということかな。ニート分類で言えば、ひきこもりタイプ以外は支援で何とかなりそうな感じですね。でも心に大きな問題があればそちらの解決が先決であり、それは専門家じゃないと難しいかと思います。また家族や地域社会の取り組みが必要になってくると思います。


<分類再掲>

Ⅰヤンキー型
 反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ
Ⅱひきこもり型
 社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ
Ⅲ立ちすくみ型
 就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ
Ⅳつまずき型
 いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプ


ニート分類の中にもあり、フリーターの記事(格差社会4)でも分類してみましたが、「自信喪失」と「やりたいことが見つからない」(所謂「自分探し」)の問題は共通するように思います。高校生のアンケート結果を紹介した記事(教育を考える8)にも書きましたが、この結果で見ると自信喪失が明らかであり、はなから劣等感に包まれてしまっていることが問題です。これが、山田教授の言う「希望格差」なんじゃないか、とも思えます。敗北感が、より低年齢化しているとも言えます。普通は事業に失敗したり、会社をクビになった大人とかが感じるような敗北感であるのに、です。固定化されているのは、社会の価値観であり、親の価値観であって、子供のやる気や能力ではないはずなのです。そのことを教える大人が減っている、ということではないかと思えるのです。


「自分が必要とされているかわからない」とか「自分に何ができるかわからない」というようなことから、「オンリーワン」へと逃げ込もうとする若者が増えるのではないだろうか。その顕著な言葉が「自分がやりたいこと」「自分に向いてること」で、自己しかない自分の心の世界へと閉じこもり、「将来は見込みがない」「どうせ俺はこんなレベル」「いい学校に行けなかったから、もう落伍者だ」という決めつけが出来上がっているのではないか。この評価は、主に親の考えが反映されているのかもしれない。親の評価は、世の中で言いふらされる評価の、一面的な部分だけが強調されて、親の頭に埋め込まれているのだろう。固定化は、子供にではなく、親の頭の中に出来上がっている。

「オンリーワン」を目指すのは、何かに没頭したり、求道者的な取り組みをする時に、他者との競争ということではなく、自分の中でのより高いレベルを求め続けるときである。相手は自分の中にあるのだ。そういう確たる価値観があれば、自らの仕事に誇りを持つということを意識させ、同時に自分の存在価値を実感できるのではないか。これは、あらゆる局面で「徹底的に良心的な仕事をするという、優れた完全主義という文化」(エリート教育は国際競争力を高めるか)ということと、密接に繋がっているのだ。


一方で、「どのように頑張ればよいか」「道を切り開く勇気と強い意志をどう育むか」ということについて、親も子供も分らないまま何もせず過ぎていくので、親は「のびのびと育てる」「個性や自主性を尊重する」という一見妥当な方向(単に無策なだけということもある)へ進むのである。しかし、これは、親が教育方法の探索を放棄した場合にも出てきてしまう。家庭の教育力低下と呼ばれるのは、こうした探索を止めてしまう親が増えている、ということなのだろうか。おまけに、昔は「親はなくとも子は育つ」などと言っていたが、これは小学卒業後くらいから丁稚奉公に出るとか、中卒で集団就職するという若年の就業があったことや、地域社会の教育システムがある程度機能していたので、社会が育ててくれた面があったのかもしれないが、今はこうした機能は殆ど失われているようである。これも最近言われる「地域の教育力低下」ということと符号するかもしれない。


これらを解決する方法は、よくわかりませんが、やっぱり子供に仕事させるということくらいしか思いつきません。或いは、部活を凄く頑張るとか、スポーツを頑張るとか、そうした経験から、何かを掴めることができれば、少し変わってくるかもしれません。以前に書いた地域の祭り参加も、実体験を積む場として考えると、有効なのではないかと思います。具体的政策・制度については、NPO、教育関係者とか行政の専門家等で、真剣に考えていくしかないと思います。


参考までに、格差社会シリーズをお読み頂ければ幸いです。





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