「失われた10年」(或いは15年?)とは、本当に10年の変化であったのか?よく判りませんが、何となく感じる別なものがあります。郵貯の動向を考えるのに過去を振り返ったら、少し違った印象でした。前の記事に少し書いたのですが、97年をピークに可処分所得が減少しており、そこから何かが起こってしまったように思います。それまでの経済動向と、何が変わってしまったのか。恐らく専門書などでもきっと述べられているんじゃないかと思いますが、少し書いてみます。私の勝手な推測ですので。優しく教えて下さいね。
まず、97年当時の状況というのは、言わずと知れた金融危機でした。拓銀や山一の破綻に代表されますね。バブル崩壊後、確かに大きなダメージを受けたわけですが、それでもどうにか「不景気だね~」くらいで過ぎました。一応景気循環の谷というような印象であったかもしれません。しかし、金融危機が始まり、世の中全体の心理的不安が増大していく一方で、経済的には「縮み」が起こっていきます。95~97年くらいには、日経平均が大体20000円を回復する場面も見られて、そこそこの経済活動であったかもしれません。しかし、98年以降、急速に冷えて行きます。また98年1月には、後に批判の対象となった橋本内閣が誕生しました。
何が起こったのか、というと、恐怖というか安全地帯への逃げ込みというような逃避行動の結果ではないのかな、と。恐怖が連鎖して起こってしまいました。それは経営陣もそうです。従業員のリストラに踏み切り、企業が持つ不動産等の売却を進めようと考えます。遊休資産の「現金化」が始まりました。特に土地に関しては、下がり続けていたため、売り遅れないように、というようなあせりも出てきたかもしれません。銀行は不良債権に怯え、現金保有を進めます。回収した担保の現金化に努めます。
そして、貸出残高は97年以降減少していくのです。新規の貸出にも不必要に慎重になっていったかもしれません。こうして、各企業に「リストラ」の嵐がやってきました。また、日本型経営の問題点が語られるようになり、欧米型の成果重視・実力評価という形へと多くの企業が変わっていくことになりました。
企業が資産内容の健全化を目指して、社員寮や保養地なども次々に売却していきます。不動産価値はどんどん低下していき、「現金化」が進んでいく一方です。これによって企業貯蓄は上昇していくのではないでしょうか。財政出動のため国債発行額は増加してましたが、銀行は貸出を減らして、国債保有額を増やしていったのです。これも恐怖からくる「縮み」によって、現金や安全な国債へと資産シフトをしていったのだと思います。
郵貯はバブル期以降着実に残高を伸ばしていきました。「安全指向」がマッチしていたのです。バブル期(91年)の定額貯金の急激な増加があって、それが満期になる00~01年頃まで、郵貯残高は増加する一方であったのですね。90年頃には130兆円弱であった郵貯残高は97年には220兆円、00年のピーク時に260兆円(やっぱり満期までは増加だったようです)ありました。それに伴って、発行額がちょうど増加する一方であった国債の保有額もどんどん増加しました。民間金融機関と郵貯の保有する国債や株式以外の有価証券投資は、97年頃には250兆円程度だったのが、00年には350兆円、02年辺りには400兆円近くまで増加、民間金融機関の保有国債は91年に45兆円程度、97年でもそれ程増加してなくて55兆円程度でしたが、00年には100兆円強、02年には130兆円程度と急速に増加しました。企業は資産の現金化を図って、それが銀行などに集まりましたが銀行は貸出を減らして、主に国債などに投資していったのではないかと思うのです。個人は郵貯を好み、その残高を増やしていったのではないかな、と思います。ITバブルに乗って、00年以降に満期を迎えた資金は、株などにも投入されたかもしれませんが、銀行との金利差が縮小していたので(98年以降は殆ど同じくらいになっていきます)、多少は銀行に流れていったかもしれませんね。
また、97~00年の間では、企業・銀行等の益だしのために株式売却が行われたりして、株価は低下していく中で売却は止まらず、企業は現金をかき集めるということになり、日経平均20000円を回復したITバブル以降には、さらに銀行を中心とした持合解消が進められ、売り圧力が強まりました。ここでも現金化が行われてしまったのです。恐怖にかられた銀行や企業はひたすら手持ち資産を売却し、現金をかき集めた。その資金は結果的に、国債を中心とする債券投資へと向けられていったのではないか。個人は安全を求めて郵貯に資金を振り向けたが、収入減少が明らかとなった97年以降にはバブル時に仕込まれた定額貯金の満期が来る00~01年までが郵貯資産のピークで、以後民間金融機関との金利差がさほどなくなったのと、メガバンク誕生で金融不安は後退したことで資金は少し向かうようになったのではないのかな。株式に向けられた資金は減少し、恐怖を緩和するために「安全指向」であったので(というか銀行も企業も売りに出す方が圧倒的に多く、個人資金では買い支えることなどできなかったろう)、株価は00年以降低下が続き、同じ頃に登場してきた小泉内閣の「国民にも痛み」という政策と景気循環の悪化が重なって、バブル後最安値で8000円割れが起こることとなった。財政拡張政策が期待出来ないという市場の失望も当然織り込まれた株価であったと言えよう。97年までの心理的ダメージとは比較にならない程の、不安による「縮み」の結果であったと思う。
国は98年頃から国有地売却を進め、同じように現金化に走っていた。銀行も企業も不動産を売りに出していた、その同じ時期にひたすら売る方向へと進んでいったのだろう。そういう「縮み」の心理が、社会全体に蔓延していたとも言えるのかもしれないが。
このようにして、銀行にも郵貯にも現金をかき集めて預貯金残高は増大し続けたのに、貸出残高は減少の一途で国債投資へと資金が向かっていった。世の中に「縮み」の合意形成が一致して起こったのが、「’97ショック」であったのではないのかな。その結果、リストラ、自殺なども増加し、労働市場の明らかな変化が起こり始め、失業率が増加していったのではないか。このような状態が、所謂「失われた10年」と表現されているんじゃないのかな、と思ったのです。でも実は97年以降の出来事によって始まったんじゃないのかな?、と(予兆的な変化はいくらかあったのかもしれませんが)。
まず、97年当時の状況というのは、言わずと知れた金融危機でした。拓銀や山一の破綻に代表されますね。バブル崩壊後、確かに大きなダメージを受けたわけですが、それでもどうにか「不景気だね~」くらいで過ぎました。一応景気循環の谷というような印象であったかもしれません。しかし、金融危機が始まり、世の中全体の心理的不安が増大していく一方で、経済的には「縮み」が起こっていきます。95~97年くらいには、日経平均が大体20000円を回復する場面も見られて、そこそこの経済活動であったかもしれません。しかし、98年以降、急速に冷えて行きます。また98年1月には、後に批判の対象となった橋本内閣が誕生しました。
何が起こったのか、というと、恐怖というか安全地帯への逃げ込みというような逃避行動の結果ではないのかな、と。恐怖が連鎖して起こってしまいました。それは経営陣もそうです。従業員のリストラに踏み切り、企業が持つ不動産等の売却を進めようと考えます。遊休資産の「現金化」が始まりました。特に土地に関しては、下がり続けていたため、売り遅れないように、というようなあせりも出てきたかもしれません。銀行は不良債権に怯え、現金保有を進めます。回収した担保の現金化に努めます。
そして、貸出残高は97年以降減少していくのです。新規の貸出にも不必要に慎重になっていったかもしれません。こうして、各企業に「リストラ」の嵐がやってきました。また、日本型経営の問題点が語られるようになり、欧米型の成果重視・実力評価という形へと多くの企業が変わっていくことになりました。
企業が資産内容の健全化を目指して、社員寮や保養地なども次々に売却していきます。不動産価値はどんどん低下していき、「現金化」が進んでいく一方です。これによって企業貯蓄は上昇していくのではないでしょうか。財政出動のため国債発行額は増加してましたが、銀行は貸出を減らして、国債保有額を増やしていったのです。これも恐怖からくる「縮み」によって、現金や安全な国債へと資産シフトをしていったのだと思います。
郵貯はバブル期以降着実に残高を伸ばしていきました。「安全指向」がマッチしていたのです。バブル期(91年)の定額貯金の急激な増加があって、それが満期になる00~01年頃まで、郵貯残高は増加する一方であったのですね。90年頃には130兆円弱であった郵貯残高は97年には220兆円、00年のピーク時に260兆円(やっぱり満期までは増加だったようです)ありました。それに伴って、発行額がちょうど増加する一方であった国債の保有額もどんどん増加しました。民間金融機関と郵貯の保有する国債や株式以外の有価証券投資は、97年頃には250兆円程度だったのが、00年には350兆円、02年辺りには400兆円近くまで増加、民間金融機関の保有国債は91年に45兆円程度、97年でもそれ程増加してなくて55兆円程度でしたが、00年には100兆円強、02年には130兆円程度と急速に増加しました。企業は資産の現金化を図って、それが銀行などに集まりましたが銀行は貸出を減らして、主に国債などに投資していったのではないかと思うのです。個人は郵貯を好み、その残高を増やしていったのではないかな、と思います。ITバブルに乗って、00年以降に満期を迎えた資金は、株などにも投入されたかもしれませんが、銀行との金利差が縮小していたので(98年以降は殆ど同じくらいになっていきます)、多少は銀行に流れていったかもしれませんね。
また、97~00年の間では、企業・銀行等の益だしのために株式売却が行われたりして、株価は低下していく中で売却は止まらず、企業は現金をかき集めるということになり、日経平均20000円を回復したITバブル以降には、さらに銀行を中心とした持合解消が進められ、売り圧力が強まりました。ここでも現金化が行われてしまったのです。恐怖にかられた銀行や企業はひたすら手持ち資産を売却し、現金をかき集めた。その資金は結果的に、国債を中心とする債券投資へと向けられていったのではないか。個人は安全を求めて郵貯に資金を振り向けたが、収入減少が明らかとなった97年以降にはバブル時に仕込まれた定額貯金の満期が来る00~01年までが郵貯資産のピークで、以後民間金融機関との金利差がさほどなくなったのと、メガバンク誕生で金融不安は後退したことで資金は少し向かうようになったのではないのかな。株式に向けられた資金は減少し、恐怖を緩和するために「安全指向」であったので(というか銀行も企業も売りに出す方が圧倒的に多く、個人資金では買い支えることなどできなかったろう)、株価は00年以降低下が続き、同じ頃に登場してきた小泉内閣の「国民にも痛み」という政策と景気循環の悪化が重なって、バブル後最安値で8000円割れが起こることとなった。財政拡張政策が期待出来ないという市場の失望も当然織り込まれた株価であったと言えよう。97年までの心理的ダメージとは比較にならない程の、不安による「縮み」の結果であったと思う。
国は98年頃から国有地売却を進め、同じように現金化に走っていた。銀行も企業も不動産を売りに出していた、その同じ時期にひたすら売る方向へと進んでいったのだろう。そういう「縮み」の心理が、社会全体に蔓延していたとも言えるのかもしれないが。
このようにして、銀行にも郵貯にも現金をかき集めて預貯金残高は増大し続けたのに、貸出残高は減少の一途で国債投資へと資金が向かっていった。世の中に「縮み」の合意形成が一致して起こったのが、「’97ショック」であったのではないのかな。その結果、リストラ、自殺なども増加し、労働市場の明らかな変化が起こり始め、失業率が増加していったのではないか。このような状態が、所謂「失われた10年」と表現されているんじゃないのかな、と思ったのです。でも実は97年以降の出来事によって始まったんじゃないのかな?、と(予兆的な変化はいくらかあったのかもしれませんが)。