昨日は尻切れトンボで終わってしまいました。余りに眠かったもので。ゴメンナサイね。
ナイトの「不確実性」というのはどういうものか、私の理解の範囲で簡単に書いてみたいと思います。
これにはある思考実験のようなものがあります。
「Ellsbergのパラドックス」と呼ばれるものです。
まず、赤と青の玉が入った2つの箱アとイがあります。アの箱には赤と青が半分ずつ入っていて、その情報は明らかとなっています。一方、イの箱は全くのブラックボックスであり、玉がどういう割合で入っているかは不明であるというものです。ここから赤玉を選ぶという場合に、人々はどちらの箱から引くのか、という問題です。
アの箱の赤玉を選ぶ期待値は1/2です。ブラックボックスになっているイの箱の主観的確率がどうなっているか、ということにもよるのですが、一般にはアの箱から引く人が多い、ということのようです。これはどうしてなのか?
今、イの箱の赤玉の主観的確率をP(r)、青玉をP(b)とします。すると、通常であれば、
P(r)+P(b)=1・・・・(1)
が成り立ちます。もしも、主観的確率がアの箱と同じく半分ずつであれば、P(r)=P(b)=1/2ということになりますね。普段期待値を考える時には、こうした等式(1)が成立します(加法的確率測度)。ところがナイトの「不確実性」というのが存在している時には、非加法的確率測度Pが凸であるということのようで、
P(r)+P(b)<1・・・・(2)
が成立する、というものです。これは数学的に説明されうるもので、私にはちょっと難しすぎて省きます(笑、関心の向きはご自身で調べてみて下さい)。そういうわけで、もしもイの箱に半分ずつであると主観的に考えるとするならば、(2)式においてP(r)=P(b)<1/2となるために、ブラックボックスのイの箱から引くよりも、情報が判っているアの箱から引く方が有利である、ということになるのです。実証研究もこれを支持しているようです。
Wikipediaからの引用ですけれども、判り易いので記します。
フランク・ナイト - Wikipedia
ナイトは、不確定な状況を3つのタイプに分類した。第1のタイプは「先験的確率」である。これは例えば「2つのサイコロを同時に投げるとき、目の和が7になる確率」というように、数学的な組み合わせ理論に基づく確率である。第2のタイプは「統計的確率」である。これは例えば男女別・年齢別の「平均余命」のように、経験データに基づく確率である。そして第3のタイプは「推定」である。このタイプの最大の特徴は、第1や第2のタイプと異なり、確率形成の基礎となるべき状態の特定と分類が不可能なことである。さらに、推定の基礎となる状況が1回限りで特異であり、大数の法則が成立しない。ナイトは推定の良き例証として企業の意思決定を挙げている。企業が直面する不確定状況は、数学的な先験的確率でもなく、経験的な統計的確率でもない、先験的にも統計的にも確率を与えることができない推定であると主張した。
上記パラドックスが起こるような「不確実性」は、第3の「推定」のタイプです。企業の意思決定というのがこうした「不確実性」存在下で行われる、ということが重要であると思います。企業は消費者の意思決定(の確率分布など)を知ることがないままに(事前のマーケティングなどで、多少の近似情報は入手するはずでしょうが)、価格決定を行わなければならない、ということです。ナイトの「不確実性」は、企業の期待形成に影響があると考えることが出来るのではないか、と思います。
一般に、経済学的には価格というのは硬直性が存在しており、価格変更が必ずしも行われるとは言えないようです。
例えば、Akerlof・Yellenの提示した「near-rationality」とは、企業が惰性や経験則によって行動し、適正価格水準から少しだけ乖離しても価格訂正を行わない(その分ロスを発生する)ことがあり、それが非合理的であっても起こってしまう、というものです。
他にもMankiw は「メニュー・コスト理論」で、価格硬直性が社会的な一次オーダーの余剰ロス発生の可能性を指摘しています。名目価格変更に伴う必要コスト(=メニュー・コスト)が非常に小さいものであっても、生産者余剰の減少を招くにも関わらず(価格を変更した方が利潤を得られるのに)販売価格が変更されない傾向にある、ということのようです。このような非効率を取り除く意味で、緩徐なインフレが望ましいとしています。
他の研究でも、どちらかと言うと値上げはしやすく、値下げはしづらいと通常考えられているようです。価格は下方硬直性(価格粘着性)がある(渕・渡辺)のだ、と(業種別に有意差があると考えられていますけれども)。
しかし、現実に見る現象としては、マックのハンバーガーも、吉牛の牛丼も、プレステも、実際に値下げされており、これらは経済学的には非常に特殊な(個々の)事例であって、他の圧倒的大多数が違うのだ、ということなのかもしれません。そうであれば、そもそもデフレ(持続的な物価下落)なんて発生し得ないようにも思えます。何故なら、ごく稀な企業群のみによって価格下落となったとしても、圧倒的大多数は価格を下げることがない(=下方硬直性)はずですから。特に財に比べて、サービスでは粘着性が高いのですし。
それでも全体的に価格が下落するということは、そういう硬直性を打ち破ってなお、下落圧力が存在するとしか思えないのですね。そこに影響を与えたのが企業の期待形成であり、「不確実性」の存在によって、「値下げ」が有力な戦略であると信じ込まれたか、強力なインセンティブとなっていたのではないのかな、と推測するのです。価格設定側である企業に形成された、バブルの熱狂と反対の、まことに弱気の「spirit」を刺激する(それか、ある種の”セットポイント”の下方移動のような)sticky information が彼らに充満していたのではないのかな、と。元々企業の期待形成というのは、家計に比べてbackward-looking 優位でもありますしね(笑)。
ちょっと追加。
ところで、私はビールを好んで飲みます。ビールの味が好きなので、絶対に発泡酒等を買ったりはしませんね。これは前にも書きましたが。誰かがブログか何かに書いていたが、ビール好きの人は「知的水準が低い人」だそうです。ちょっと失礼だな、と思ったけど、自分がまさにそうなので仕方がないかもしれない(笑、妙に納得した)。アイリッシュがパブで散々愚痴を言ったり、政治や政治家(それとも伝統的イギリス人のスノッブ?)批判をするというようなことと関係しているのかな?(笑)それは関係ないが、ビールの状況というものを振り返ってみたいと思う。
今は、発泡酒とか「第三のビール」などが登場して、言ってみれば「ビールもどき」が氾濫しており、市場規模は相当なものとなっていますね。元のビールよりも販売ケース数は多くなっているかもしれません。どうしてこのようなことが起こってしまったのか?
まずは、当初ビールメーカーは費用削減努力をしたでしょう。販売店は大幅な値引きなどによって、単位当たりの利益を削っても販売数量で補おうとした。需要に変化がない時、販売側が価格を下げる意味というのは本来なさそうですね。それなのに、どうしてなのか?
多く売ったらもらえる、メーカーからの報奨金(リベートのようなもの?)が十分魅力的であるとしたら、その分の価格を下げてもよさそうです。しかし、リベートが廃止されれば、価格を元に戻す必要があります。他にも酒税のアップによって、価格転嫁するべき費用が発生するとしたら、価格は上げるべきですね。こういう時に、どうしたかというと、流通分野などでのコスト削減などによって価格上昇を抑制し、販売価格を据え置くということもあるかもしれません。値上げしている業者も存在したと思いますが、すると、消費者は安く売っている店を探してそちらにいってしまい、売れなくなる。それでも、メーカーにとっては何処で売れたとしても、販売数量が変わる訳ではないですよね。販売店の何処かが高く売っていて、その結果価格競争に敗れて潰れたとしても、別な量販店で今まで通りの数量が代替されてしまえば、メーカーには関係ないと思えます。
では、何が問題なのかというと、競合はビール会社同士ばかりではなくて、その他の飲料ということなのではないのかな。つまりワインが昔よりも売れるようになってきたり、焼酎がブームになったりして、従来2000円分のビールを買っていたものが、同じ金額をワインや焼酎などに投入されてしまい、購買層を奪われてしまう、と。この時に、ビールという「商品」そのものの魅力(競争力)が高ければそれ程数量が落ちていかないかもしれない。新たに発生したコスト分だけ価格に転嫁したとしても、同じ数量が売れていればいいのですから。しかし、実際の観察される現象としては、「ビール離れ」のようなことが起こってしまい、数量が落ちていくとなれば、「こりゃイカン」と焦る訳ですね。ビールの商品力を高めようとすると、プレミアムビールのようなコストアップになってしまう。同じコストではそれ以上の魅力アップに繋がらないと考えれば、やはり「低価格戦略」を選択するということになるかもしれません。マックのハンバーガーが驚くほど安くなって、サラリーマンの昼食の一部を占有したようなものです(笑)。
で、ビールの原価を下げる努力をするのですが、それでもコスト削減にも限界がある。1000円の原価の商品で、10%削減ならば効果が結構あるかもしれないが、原価が100円で100円が税金であると(実際には違います。今は単なる仮定ですからね)、血の滲む思いで10%削減(100円→90円)を達成しても、現実の販売価格への影響力は5%にしかならないのですし。ワインや焼酎から消費者を奪い返すには、200円が190円になったとしても十分魅力的とは言えないのかもしれません。本来転嫁するべき税金分とコスト削減で、メーカーとしての努力にも限界が訪れるということになります。「もうビールという商品自体には、コストを削れるところが(ビールだけに)一滴もない」という状況となるのです。もしもこのままでは、他の飲料に消費者を取られて売上が落ちていってしまう、という悲観的推定が出てくると思います。
そういう訳で、「ビールもどき」の販売に移るということになります。発泡酒はそれまでのビールと比較すれば驚くほど低価格で、ビールとほぼ似た感じであり、消費者の欲求を満たす水準の商品力を有していたということですね。今までビールを手控えて、他の商品に投入されていた資金が、再びビールメーカーの下に戻ってくるということになります(しかし、結果的にはビールそのものの販売数量が低下してしまうので、ある意味競合ということになるけれども)。「低価格戦略」は成功したということです。この成功は「第三のビール」の誕生を促したと思われます。低価格品の投入によって利益を生み出せることが、既に判っているからです。
こういう風にして、価格転嫁を抑制し、新たな低価格品を投入して新規市場を生み、企業利益も創出しようとしたのだと思います。ミクロ的にこうした一部低価格路線が実行されたとて、他の財やサービス価格が上昇するならばマクロで見れば物価の変化なんか起こらないのでしょうから、デフレになどならないでしょう。しかし、もてはやされた「勝ち組企業」が似たような「低価格戦略」で利益を生み出し、その選択をしなかった企業群に「敗北」が多かった―要するに「負け組」への仲間入り―としたら、多くの企業に(ある種の羨望の対象として)「低価格幻想」が根付いたとしても、多分有り得るかなと思うのです。
そして、”根付く”というのは、企業の期待形成が一定方向により強固になっていくことでもあり、「デフレ期待」が台頭していったのだろうと思います。企業の「インフレ期待」は「弱気」となっていったのだろうな、と。判断する時の参照情報としては、よりsticky な情報であったであろう、と。
ナイトの「不確実性」というのはどういうものか、私の理解の範囲で簡単に書いてみたいと思います。
これにはある思考実験のようなものがあります。
「Ellsbergのパラドックス」と呼ばれるものです。
まず、赤と青の玉が入った2つの箱アとイがあります。アの箱には赤と青が半分ずつ入っていて、その情報は明らかとなっています。一方、イの箱は全くのブラックボックスであり、玉がどういう割合で入っているかは不明であるというものです。ここから赤玉を選ぶという場合に、人々はどちらの箱から引くのか、という問題です。
アの箱の赤玉を選ぶ期待値は1/2です。ブラックボックスになっているイの箱の主観的確率がどうなっているか、ということにもよるのですが、一般にはアの箱から引く人が多い、ということのようです。これはどうしてなのか?
今、イの箱の赤玉の主観的確率をP(r)、青玉をP(b)とします。すると、通常であれば、
P(r)+P(b)=1・・・・(1)
が成り立ちます。もしも、主観的確率がアの箱と同じく半分ずつであれば、P(r)=P(b)=1/2ということになりますね。普段期待値を考える時には、こうした等式(1)が成立します(加法的確率測度)。ところがナイトの「不確実性」というのが存在している時には、非加法的確率測度Pが凸であるということのようで、
P(r)+P(b)<1・・・・(2)
が成立する、というものです。これは数学的に説明されうるもので、私にはちょっと難しすぎて省きます(笑、関心の向きはご自身で調べてみて下さい)。そういうわけで、もしもイの箱に半分ずつであると主観的に考えるとするならば、(2)式においてP(r)=P(b)<1/2となるために、ブラックボックスのイの箱から引くよりも、情報が判っているアの箱から引く方が有利である、ということになるのです。実証研究もこれを支持しているようです。
Wikipediaからの引用ですけれども、判り易いので記します。
フランク・ナイト - Wikipedia
ナイトは、不確定な状況を3つのタイプに分類した。第1のタイプは「先験的確率」である。これは例えば「2つのサイコロを同時に投げるとき、目の和が7になる確率」というように、数学的な組み合わせ理論に基づく確率である。第2のタイプは「統計的確率」である。これは例えば男女別・年齢別の「平均余命」のように、経験データに基づく確率である。そして第3のタイプは「推定」である。このタイプの最大の特徴は、第1や第2のタイプと異なり、確率形成の基礎となるべき状態の特定と分類が不可能なことである。さらに、推定の基礎となる状況が1回限りで特異であり、大数の法則が成立しない。ナイトは推定の良き例証として企業の意思決定を挙げている。企業が直面する不確定状況は、数学的な先験的確率でもなく、経験的な統計的確率でもない、先験的にも統計的にも確率を与えることができない推定であると主張した。
上記パラドックスが起こるような「不確実性」は、第3の「推定」のタイプです。企業の意思決定というのがこうした「不確実性」存在下で行われる、ということが重要であると思います。企業は消費者の意思決定(の確率分布など)を知ることがないままに(事前のマーケティングなどで、多少の近似情報は入手するはずでしょうが)、価格決定を行わなければならない、ということです。ナイトの「不確実性」は、企業の期待形成に影響があると考えることが出来るのではないか、と思います。
一般に、経済学的には価格というのは硬直性が存在しており、価格変更が必ずしも行われるとは言えないようです。
例えば、Akerlof・Yellenの提示した「near-rationality」とは、企業が惰性や経験則によって行動し、適正価格水準から少しだけ乖離しても価格訂正を行わない(その分ロスを発生する)ことがあり、それが非合理的であっても起こってしまう、というものです。
他にもMankiw は「メニュー・コスト理論」で、価格硬直性が社会的な一次オーダーの余剰ロス発生の可能性を指摘しています。名目価格変更に伴う必要コスト(=メニュー・コスト)が非常に小さいものであっても、生産者余剰の減少を招くにも関わらず(価格を変更した方が利潤を得られるのに)販売価格が変更されない傾向にある、ということのようです。このような非効率を取り除く意味で、緩徐なインフレが望ましいとしています。
他の研究でも、どちらかと言うと値上げはしやすく、値下げはしづらいと通常考えられているようです。価格は下方硬直性(価格粘着性)がある(渕・渡辺)のだ、と(業種別に有意差があると考えられていますけれども)。
しかし、現実に見る現象としては、マックのハンバーガーも、吉牛の牛丼も、プレステも、実際に値下げされており、これらは経済学的には非常に特殊な(個々の)事例であって、他の圧倒的大多数が違うのだ、ということなのかもしれません。そうであれば、そもそもデフレ(持続的な物価下落)なんて発生し得ないようにも思えます。何故なら、ごく稀な企業群のみによって価格下落となったとしても、圧倒的大多数は価格を下げることがない(=下方硬直性)はずですから。特に財に比べて、サービスでは粘着性が高いのですし。
それでも全体的に価格が下落するということは、そういう硬直性を打ち破ってなお、下落圧力が存在するとしか思えないのですね。そこに影響を与えたのが企業の期待形成であり、「不確実性」の存在によって、「値下げ」が有力な戦略であると信じ込まれたか、強力なインセンティブとなっていたのではないのかな、と推測するのです。価格設定側である企業に形成された、バブルの熱狂と反対の、まことに弱気の「spirit」を刺激する(それか、ある種の”セットポイント”の下方移動のような)sticky information が彼らに充満していたのではないのかな、と。元々企業の期待形成というのは、家計に比べてbackward-looking 優位でもありますしね(笑)。
ちょっと追加。
ところで、私はビールを好んで飲みます。ビールの味が好きなので、絶対に発泡酒等を買ったりはしませんね。これは前にも書きましたが。誰かがブログか何かに書いていたが、ビール好きの人は「知的水準が低い人」だそうです。ちょっと失礼だな、と思ったけど、自分がまさにそうなので仕方がないかもしれない(笑、妙に納得した)。アイリッシュがパブで散々愚痴を言ったり、政治や政治家(それとも伝統的イギリス人のスノッブ?)批判をするというようなことと関係しているのかな?(笑)それは関係ないが、ビールの状況というものを振り返ってみたいと思う。
今は、発泡酒とか「第三のビール」などが登場して、言ってみれば「ビールもどき」が氾濫しており、市場規模は相当なものとなっていますね。元のビールよりも販売ケース数は多くなっているかもしれません。どうしてこのようなことが起こってしまったのか?
まずは、当初ビールメーカーは費用削減努力をしたでしょう。販売店は大幅な値引きなどによって、単位当たりの利益を削っても販売数量で補おうとした。需要に変化がない時、販売側が価格を下げる意味というのは本来なさそうですね。それなのに、どうしてなのか?
多く売ったらもらえる、メーカーからの報奨金(リベートのようなもの?)が十分魅力的であるとしたら、その分の価格を下げてもよさそうです。しかし、リベートが廃止されれば、価格を元に戻す必要があります。他にも酒税のアップによって、価格転嫁するべき費用が発生するとしたら、価格は上げるべきですね。こういう時に、どうしたかというと、流通分野などでのコスト削減などによって価格上昇を抑制し、販売価格を据え置くということもあるかもしれません。値上げしている業者も存在したと思いますが、すると、消費者は安く売っている店を探してそちらにいってしまい、売れなくなる。それでも、メーカーにとっては何処で売れたとしても、販売数量が変わる訳ではないですよね。販売店の何処かが高く売っていて、その結果価格競争に敗れて潰れたとしても、別な量販店で今まで通りの数量が代替されてしまえば、メーカーには関係ないと思えます。
では、何が問題なのかというと、競合はビール会社同士ばかりではなくて、その他の飲料ということなのではないのかな。つまりワインが昔よりも売れるようになってきたり、焼酎がブームになったりして、従来2000円分のビールを買っていたものが、同じ金額をワインや焼酎などに投入されてしまい、購買層を奪われてしまう、と。この時に、ビールという「商品」そのものの魅力(競争力)が高ければそれ程数量が落ちていかないかもしれない。新たに発生したコスト分だけ価格に転嫁したとしても、同じ数量が売れていればいいのですから。しかし、実際の観察される現象としては、「ビール離れ」のようなことが起こってしまい、数量が落ちていくとなれば、「こりゃイカン」と焦る訳ですね。ビールの商品力を高めようとすると、プレミアムビールのようなコストアップになってしまう。同じコストではそれ以上の魅力アップに繋がらないと考えれば、やはり「低価格戦略」を選択するということになるかもしれません。マックのハンバーガーが驚くほど安くなって、サラリーマンの昼食の一部を占有したようなものです(笑)。
で、ビールの原価を下げる努力をするのですが、それでもコスト削減にも限界がある。1000円の原価の商品で、10%削減ならば効果が結構あるかもしれないが、原価が100円で100円が税金であると(実際には違います。今は単なる仮定ですからね)、血の滲む思いで10%削減(100円→90円)を達成しても、現実の販売価格への影響力は5%にしかならないのですし。ワインや焼酎から消費者を奪い返すには、200円が190円になったとしても十分魅力的とは言えないのかもしれません。本来転嫁するべき税金分とコスト削減で、メーカーとしての努力にも限界が訪れるということになります。「もうビールという商品自体には、コストを削れるところが(ビールだけに)一滴もない」という状況となるのです。もしもこのままでは、他の飲料に消費者を取られて売上が落ちていってしまう、という悲観的推定が出てくると思います。
そういう訳で、「ビールもどき」の販売に移るということになります。発泡酒はそれまでのビールと比較すれば驚くほど低価格で、ビールとほぼ似た感じであり、消費者の欲求を満たす水準の商品力を有していたということですね。今までビールを手控えて、他の商品に投入されていた資金が、再びビールメーカーの下に戻ってくるということになります(しかし、結果的にはビールそのものの販売数量が低下してしまうので、ある意味競合ということになるけれども)。「低価格戦略」は成功したということです。この成功は「第三のビール」の誕生を促したと思われます。低価格品の投入によって利益を生み出せることが、既に判っているからです。
こういう風にして、価格転嫁を抑制し、新たな低価格品を投入して新規市場を生み、企業利益も創出しようとしたのだと思います。ミクロ的にこうした一部低価格路線が実行されたとて、他の財やサービス価格が上昇するならばマクロで見れば物価の変化なんか起こらないのでしょうから、デフレになどならないでしょう。しかし、もてはやされた「勝ち組企業」が似たような「低価格戦略」で利益を生み出し、その選択をしなかった企業群に「敗北」が多かった―要するに「負け組」への仲間入り―としたら、多くの企業に(ある種の羨望の対象として)「低価格幻想」が根付いたとしても、多分有り得るかなと思うのです。
そして、”根付く”というのは、企業の期待形成が一定方向により強固になっていくことでもあり、「デフレ期待」が台頭していったのだろうと思います。企業の「インフレ期待」は「弱気」となっていったのだろうな、と。判断する時の参照情報としては、よりsticky な情報であったであろう、と。
宗教法人だ。
彼らから、一般企業並みの法人税を取ると、消費税くらいの価値になるだろ。
「消費税を上げなければならない」プロパガンダが出ているが、彼らの蓄財を一部でも国家に吸い上げれば、十分だろ。
法の元の平等のはずが、信仰の自由で、甘い汁を吸っている奴らから取り立てろ。
因みに消費税は現在の水準でも、約10兆円超ですので、これと同じ額を集めるのは無理かと思います。これも私の知っている範囲の答えですけれども。
あと、私は議員でも行政関係者でもないので、いくら私に文句を言っても、徴税できる訳ではありませんので。