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福島産科死亡事件の裁判

2007年01月28日 16時26分37秒 | 法と医療
既に色々な意見が出されてきたと思いますが、いよいよ始まった、ということで注目を集めているでしょう。特に、多くの医療関係者たちの関心が高いようですね。

これまでの参考記事です。

プロフェッショナルと責任

サンバの幻想?

医療不審死の問題

悪い予想が現実になってしまった

私は官僚ではありません(笑)

助産師・看護師の業務に関する法的検討

奈良の妊婦死亡事件について

続・奈良の妊婦死亡事件について



まず、毎日新聞の記事を見てみました。
例の奈良県の病院の報道後でもあり、あの時と報道がどう変化しているのか、参考になりますし(この事件に関して、報道ベース程度の情報しか見てないので、詳しいことは知らないです。2ちゃんとか読みませんし、何か別の情報源もないです。事件のまとめサイトみたいな所も、詳しく読んでいません)。


Yahooニュース - 毎日新聞 - 福島産科事故 被告産婦人科医、起訴事実を否認 初公判で

一部抜粋しながら、思うところを述べてみたいと思います。これまで何度もお断りしておりますが、私は医師ではありません。なので、あくまで専門外の素人考えであるということを念頭に置いて、お読み下さるようにお願い致しますね(以下、毎日の記事からの引用部分は『』で表示します)。




『冒頭陳述で検察側は、応援を呼ぶべきだという先輩医師の事前のアドバイスを被告が断ったことや、胎盤はく離開始5分後の血圧降下など大量出血の予見可能性があったことなどを指摘した。』


◎「応援を呼ぶべき」というのは、殆ど全ての場合に当てはまってしまいます。どのような手術であっても、自分1人よりは他にも同じ専門家が居てくれた方が有り難いに決まっています。「医師の技量評価」について、自分が自ら行う場合と、他人から見て行う場合には乖離がある可能性があります。更に、本人にとっては「十分可能」と判断できるレベルであっても、実際の現場では「想定外」というようなことに度々突き当たるのであり、そこで判断や予測が「甘かった、悪かった」というのを事前に判別するのは難しい部分があります。医療の本質的な部分というのは、「想定外」ということが割りと頻繁に生じてきて(つまり、未知の領域である部分が”いつも”ある)、常にそれとの格闘なのである、ということなのです。これに対して、どの程度の共通認識があるか、医療関係者たち以外にそれが理解されうるか、そこに大きなギャップが存在しているのではないかと思えます。

いつもの如くヘンな喩えでスミマセンが、レジで会計する時みたいに、「誰がやっても」「どのような場合でも」同一の答えがはじき出されるというものではないのです。値段がいくらになるのか、計算してみるまでは正確に判るということではないのです。事前に「おそらくコレくらいだろう」という目安みたいな金額を判定する能力は培われますが、実際計算し始めたら予想もしていなかった答えが待っていたりするのですよ。機械的、単純に、「答えは~円だ!」という定型的な結果は出せません。医療というのはそういうものだ、ということです。


◎「胎盤剥離開始5分後の血圧降下」というのは、かなり断定的ですけれども、本当なのでしょうか?疑問は残る可能性があります。
以前ドラマであった(現代版の方、私は好きでした)「白い巨塔」でも大量出血シーンがありましたよね。2番手で入っていた講師の先生が、自分の顔面に返り血を浴びて我を失うシーンでした。こういった事態は、ごく普通の手術でも起こりえるものなのです。胎盤剥離の有無になど全く関係なく、血管損傷を生じたりして大量出血することなど、「特別珍しい」などということはないでしょう。もしも、こうした「血管損傷」とか「大量出血」自体が、「医療過誤であり、刑事罰を受けねばならない」ということになれば、手術できる人は誰もいなくなるでしょう。

血圧降下の原因については、色々と考えられるのではないでしょうか。出血は勿論ありますが、例えば、麻酔薬(麻酔深度)の影響、神経線維などの牽引(鈎などで引っ張られて)による反射なども有り得るのではないでしょうか。通常、健康な若年者(この事件の患者さんも恐らくそうだろう)であれば、一時的に出血量が100や200mℓ程度出たとしても、予備的能力が高いので大したことないのが殆どではないかと思えます。剥離した部分から動脈性の出血を生じ、一瞬で腹の中(術野)が血の海になるとか、天井付近まで血しぶきが上がるというような(「白い巨塔」のシーンみたいなものです)、本格的大量出血でもない限り、出血したからと言っていきなり死亡する訳ではありません。大量輸液、代用血漿投与、等でも循環は維持されうるのです。前にちょっと触れましたが、赤血球の酸素運搬能は理論値で言えば相当低くても生命は維持されますし、術中であれば酸素濃度を高く呼吸させられるので、低酸素血症に直ぐに陥ったりしません。1ℓ程度の出血があったとしても、「輸血なし」で手術を終わる人々はたくさんいます。体重60kgで全血量が仮に5ℓであるとして、手術中に5ℓ以上の出血となっている手術は、日本全国を探せばそれこそたくさんあると推測されます。出血量が多いからと言って、必ずしも死に至るわけではありません。輸血がある程度追いつけば、全血以上の(或いはその何倍かの)出血があったとしても、命に別状があるということにはなりません(勿論、出血が少ないのが一番いい)。

失血死というのは、そもそもただ「血が出たから」といって死ぬ訳ではありません。循環が維持できなくなるのが大半の理由であると思います。要は出血性ショックみたいな病態ということでしょうね。しかし、血液そのものではなくても、輸液で血管内のボリュームがある程度維持されていれば血圧は維持され、5ℓの約3分の1以上の出血(通常、致死的とか言われる出血量)が起こっても生命維持には影響しません。術前のHbが12あって、出血で8まで落ちたとしても、全く輸血しない場合でも酸素化は十分可能ですし、循環維持も可能なのです。殺人事件みたいに刺されて出血したままになれば、どこからも「血管内に」ボリュームを維持する為の水分は補給されないので、血圧低下が避けられず、循環虚脱に陥って死亡することになるのです。しかし、術中というのはそうした「突発的事態」に備えて、対策が予め講じられているのです。

本当に術中の出血死であるとすれば、手術を終えることなど不可能です。胎盤剥離や子宮摘出など全く出来ません。腹の中が血の海で、何も見ることもできないからです。死亡が確実となって、循環が止まれば(心室細動のような状態でしょうか?)出血自体も止まるので閉じることはできるかもしれませんけれども。繰り返すようですが、「出血量=死」というような単純なものではありません。一気に出るのではなく、ジワジワ出るというのであれば、術中に出血が多ければ多いなりにある程度の対応は可能であり、MAPが2単位とか4単位とか用意されているのであれば、相当の出血量にも耐えうると判断できると思われます。たとえ出血量が2000mℓであっても、輸血量が同量である必要性は全くない、ということも付け加えておきます。




『被害者の父親は「事前に生命の危険がある手術だという説明がなかった」と振り返る。危篤状態の時も「被告は冷静で、精いっぱいのことをしてくれたようには見えなかった」と話す。』


◎「生命に危険がある手術という説明」は、全ての医療に当てはまります。手術というのは、どんな場合でも「生命に危険」があります。他の医療行為の大半がそうです。では、それを予めどのくらい説明するべきか、というのは、決まっているかというと、実際には誰にも判っていません。もしも、出産に際して「帝王切開手術は生命に危険があります。どうしますか?」と訊いたら、ますます不安に陥る患者さんはいないでしょうか?

あなたが航空チケットを購入する時、「この便は墜落する危険性があります」とか、事前説明を受けた上で購入したりしていますか?電車の切符を購入する時、「この電車は脱線死亡事故のリスクがありますのでご注意下さい」とか、事前説明を受けそれに納得同意した上で購入したりしているのでしょうか?なぜ医療だけが、そうした「事前説明」を厳格に適用されねばならないのでしょうか?

普通に生活していて、「(一定の)リスクがある」というのは、周知の事実であるという不文律があるからなのではないでしょうか。自動車を購入する時に、「この車は衝突事故で死亡する割合が10万人中○人、轢き殺すリスクは×人です」などという説明を求めたり、それを「聞いてなかったから」といって刑事告訴したりするということはあるのでしょうか?答えるのが難しい事柄であるにも関わらず、「事実に基づいて事前に説明せよ」ということを、求めることに意義がどの程度あるのでしょう?

本来、医療の説明責任というのは、ある判断に基づいて、「患者の希望」というものを治療に反映していくことを目的としているのであって、例えば治療法A、B、Cの選択範囲が”可能である”時、それぞれについて効果やリスクについて説明し患者の同意を得るものとするべきものなのです。選択余地が殆どない、予後を大きく左右しない、患者の選択権を大きく侵害しない、というようなことについてまで、過剰な説明義務を課すとすれば、その為のコストを社会全体が負担するべきです。一件一件について、極めて厳密な契約を定め、代理人同士で契約締結を行うというレベルにしなければ、医療側がどんな説明をしたとしても紛争解決には至らないであろうと思われます。患者や家族側に完璧な説明をするというのを実施することがそもそも不可能だからです。全てを網羅することなど、今の医療にはできません。「説明を聞いた結果、治療を受けたくない」というような選択肢についてまで、コストは負担されていないのですよ、現状では。弁護士の相談と同じくタイムチャージ制にして、依頼をしてもしなくてもコストを払うということにする、或いは、契約成立時の報酬を不成立であった人たちのコストもカバーするほど負担する、などの対応を取らなければ、説明を受ける権利だけを一方的に主張されても無理ではないかと思われます。説明を受ける権利は、その対価がないのに契約が発生するとも思えないのですが、どうなのでしょうか(法学的な解釈は全然判りません)。


◎「危篤状態の時も被告は冷静」というのは、医師として当たり前です。そんな所で取り乱したり、慌てたりしているようでは、むしろ医師としての資質を疑うでしょうね。自分だけが頼り、という厳しい状況下では、自分が隊長であり全ての指示も自分だけでやらねばなりません。そんな所で冷静さを欠いているような隊長だったら、指揮命令系統は機能しなくなり、部下は全く動けなくなります。誤った指示や行為を生むことにも繋がります。どんなに追い詰められても、慌てず冷静でいることは絶対必要でしょう。まさか、泣き崩れて土下座でもしたならば、精一杯のことをしたと評価されるのでしょうか?




『「納得できない。娘が死んだ真相を教えてほしい。このままでは娘に何も報告できない」と不信感を募らせる。』


◎「納得できない」というのは理解できない訳ではありません。もし私も自分の子が死んでしまったりすれば、同じように思うと思います。しかし世の中には、判ることと判らないことがあるのは普通なのです。誰にもよく判らないことなんて、たくさんあるのです。医療の多くは、大半に有効な治療法というのはありますが、それが奏功せず残念な結果に終わってしまうということもあります。それが「何故なのか」判らないが故に、多くの医師たちや研究者たちが答えを探しているのです。「何故、患者さんがお亡くなりになったのか」という問いは、医療の中では常にあるのではないでしょうか。それが正確に判るのであれば、誰も苦労はしないでしょう。7割の人たちがみんな治癒しているのに、どうして他の3割の人たちは不幸な転帰を辿ってしまうことになったのか、教えて欲しいですよね。そういうことが依然として判らないからこそ、完璧な医療なんて存在していないのですよ。「完全なマニュアル」も存在し得ないのですよ。




今回の毎日の記事は、一応他の患者さんの意見も掲載されており、必ずしも一方的ということでもなく、以前よりも配慮はされていると思います。それから、「ニュース23」では、筑紫さんは「(事件の評価は別として)医療崩壊の危機が現実問題として、ある」というようなコメントを述べていました。女子アナもちょっと補足してましたが、周産期死亡は減少してきた、医療側は努力してきた、ということに対して触れていたので、一定の評価をしてくれたのだと思っています。ただ、事件のことについては、法的な評価があると思うので、どうなるのかは判りません。




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