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続・大学教育の未来(追記後)

2006年07月30日 18時37分21秒 | 教育問題
もう少し大学教育について書いてみようと思う。ツマラナイという評価の方が多いのかもしれませんけれども、もう暫くお付き合い頂ければ。


大学の競争と淘汰のことですけれども、私自身としては、本来1人でも多くの人が大学教育を受けられた方がよいし、義務教育であったとしてもそれは全然構わないと思います。しかし、人それぞれに向き・不向きがあって、「苦痛だ」という人々もまた多数存在するであろうし、費用的にも賄うのが大変になってしまうかもしれませんよね。更に肝心なことは、そもそも大学教育に対して、学生・保護者側が「見返り」を求めてしまうこと自体が問題なのであって、それを捨て切れない限り、「ブランド信仰」「有名マンモス大学集中」みたいなことは防げないし、「いい大学、いい会社幻想」のようなことも永続されるのではなかろうかと思います。

もじれの日々


「頑張って受験勉強をやって、こんないい大学に入って、大学院にまで大金をかけて進んで、勉強一筋で頑張ってきたのに、その結果がこんな無様な評価で、いい会社にも入れなかった」というような、「逆恨み」があったりするのではないでしょうか。保護者にしても、子どもの為に、「無理な残業を強いられても、イヤな上司にいびられても、妻に小遣いを半分にされても」父ちゃんは頑張り、「女学校(いつの話?)だか有名女子大だかを出たというプライドも捨ててまで、安い時給のレジのパート」で母ちゃんが進学塾の費用や有名私立の学費を稼いだにもかかわらず、「大学にようやく入れたと思ったら、ロクでもない仕事にしか就職できないなんて!」一体全体どういうことよ?というような錯覚が多すぎなのではないでしょうか。


本来「大学で学ぶ」ということは、卒業後に明確な「見返り」を求めるべきものではないはずなのです。学問というのは、何かをよりよく考えたり、自分や自分以外の人間の思考をなぞるのに必要であったり、何かに気付いたりするキッカケの土台を作るものであったり、他人の言葉を理解するのに必要であったりと、そういう何かの能力を培う為にあるのであって、大企業に入るための「予備選考」でもなければ、将来獲得できる収入の大きさを約束するものでもないのです(例えば、医学部とかのような特別な資格という場合には、法律上必然ということもありますが、そちらの方が本来特殊な場合だろうと思います)。人生の中で、どのような場面でも、普段の生活の中でも活かすことができるはずなのです。


にも関わらず、大学卒業者や大学院卒業者の中には、「オレはこんなにやってるのに、なぜ高給取りの職業に就けないんだ??」というようなことは少なくないと思います。学問を純粋に捉えるのであれば、それは就職や将来収入に無関係に動機付けられるべきものでしょう。ヘーゲルをこよなく愛するゴミ回収業者になったっていいし、ケインズの理論にとても詳しい漁師であってもいいのではないでしょうか。


そうは言っても、現実には将来を考えて進路選択を行うので、その志向に応じて法学部、教育学部、工学部や医学部といった選択を大学進学時点で行わざるを得ないのですね。これは個人の選択ですので、将来その仕事に就けるかどうかは判りませんね。でも、多くは、極端に言えば、「法学部を出たら、官僚とか弁護士になれる」のような錯覚があるのではないでしょうか。たとえ教育学部を出ても、みんなが教員になれるわけではないのですね。そういう時に、「折角大学を出ても無駄だった」みたいな感じになってしまうのが、そもそもの間違いなのではなかろうか、と。教員になれなかったら、教育学部の「大学教育は無駄だった」のでしょうか?


こうした大学教育は、無意味だったのでしょうか?本当に役立たずなのでしょうか?
大学では、書物に出会い、友に出会い、先生に出会い、様々な体験に出会うではありませんか。自分では気付かないかもしれないけれども、人生に大きな影響を与える何かとの出会いがあり、ひょっとすると「新たな自分」とか「自分の中の価値(観)」に出会うかもしれないではありませんか。そのような時間や機会を持てることは一生の中で、そう滅多にある訳ではありません。でも、そういうことに価値を見出すのは難しく、自分で直ぐに評価できないから、「大学なんて意味ないじゃん」ってことになりがちなのかもしれません。


多くの場合、初めから「大学教育の成果」に対して、多大な期待とか幻想があるのではないでしょうか。最初の期待が大きすぎて、卒業時の評価との乖離が大きければ大きい程、落胆も大きい、ということになるかと思います。それは就職という出力結果(まるで、before-afterみたいなもの?)を得たら、そうなるでしょう。入る前から知っているのではなく、出るときになってようやく気付くこともあるのです。すると、「こんなはずではなかった」という期待ハズレというか、無念さが大きくなるのではないでしょうか。その落差が小さいのは、実学系統(主に医・歯・薬・看護系とかでしょうか)であり、初めから将来の見通しが立っていて(職業が限定的ですので)、紛れが少ないためではないかと思います。新卒を採用する側にも、大学教育に対する過大な期待というものが、いくらかはあるのかもしれないですね。ただ、その傾向は昔から見れば変わってきていると思いますけれども。学閥的な志向も弱まってきているのではないでしょうか。


そういうわけで、本来大学教育には、有形的な或いは金銭的な見返りを過大に期待するべきではないと思います。学問とはそういうものでしょう。私が感じる大きな意義は、「出会い」であり、「何に」出会うかは人それぞれで、決まっていない為に予測できないできないと思います。それは自分が感じ取るものであり、評価も自分なら行えるが、他人には正確に評価しにくいし、客観的な(特に金額的な)価値に置き換えることも難しいでしょう。自分自身が感じ取らない限り、その価値は永遠に見出されないかもしれません。


そうはいいながらも、大学教育自体が需要と供給のあるものなので、供給側はある程度ニーズに応えていくべきではあると思います。それは、「就職指導をして欲しい」とか、「就職、進学等の情報提供をして欲しい」とか、そういった部分では応えていく必要が出てくるでしょう。将来の為に、「どのような(心の)準備をしておくのが望ましいか」ということも、求められるかもしれません。それは教えてあげる方が親切ではあります。社会常識とか一般の礼儀作法を教えてくれとか、無理な要求に応える必要性はないと思いますけれども。


仕事の「コモディティー化」ですか・・・


内田先生の記事を上の記事でも取り上げましたが、その中では「『文学部』という名称を残すことのできた大学」が「大学らしい大学」なのであり、「大学らしくない大学」というのは「文学部がない大学」ということでもあります。実学系の大学とか単科大学というのは、大体がそうですね。これらは、大学としての最低限の条件を備えていないので、淘汰されても仕方がない、ということでしょう。多くは、歴史のない、老舗でもない、ブランドも確立していない、新規参入の新設校が多いでしょう。universityとcollegeの元々の語源は正確には知らないのですが、感覚的には「Philosophiae Doctor」を生み出せる―つまりはphilosophyを学べる(当然、philosophyのある)―大学こそがuniversity なのであり、それ以外の「大学らしくない大学」(=単なる「カレッジ」)こそが淘汰されるべきである、とも受け取れるのです。このことは、地方の多くの無名私立大学での現況を示しており、地方から大学が消えるのはこの意味でもやむを得ないのです。「philosophy」なき大学は、そもそも「大学らしくない大学」なのです。


それと、内田先生が重きを置いている、「老舗力」「ブランド力」「人的ネットワーク」という価値も、大都会の「有名私立」(勿論「マンモス校」も少なくない)がまさにそれにピッタリと当てはまっているのであり、それ故、特定の「有名ブランド私立」が寡占状況をつくり、地方の無名私立大学を駆逐していく原動力となっているのです。歴史ある伝統校で、ブランド力もあって、無名校を駆逐する立場(university)であるとすれば、「大学らしくない大学」が淘汰されるのを果たして拒んだりするでしょうか。老舗校が自らの定員を割いてまで、死に行く「大学らしくない大学」(主にブランド力のない新設校でしょうね)に定員を回し、助けたりするものなのでしょうか。

「老舗力」「ブランド力」「人的ネットワーク」の強さが、他の「大学らしくない大学」を確実に淘汰へと向かわせる、最大の暴力であるということは、ほぼ間違いないと思います。それを世間一般の人々が認めてるからこそ「ブランド校集中」が起こるのであり、それを欲しがるからこそ「学生の寡占」を生じるのです。


戻りましたので、追加です。


大学での学業成績を重視した採用を求めるのであれば、企業の採用試験には「超難問」とかを課すのがよい、ということにもなりかねず、それはまるで大学受験が再び行われるのと同じようなものであり、そこでの新たな受験競争のようなものが生み出されるだけなのではないかと思えます。勉強だけで評価したりすれば、「受験地獄」だの、「知識偏重」だの、批判が数多く出されてきたのではないでしょうか。それこそ、ペーパーテストだけはできるが、「缶詰も開けられない」とか、「足が4本のニワトリを書く」とか、「満足に挨拶もできない」とか、そういうのが過去に散々出尽くしてきたので、「学歴偏重は問題かもね」「出身校依存は止めましょう」みたいになってきて、そういう中で「コミュニケーション能力」というのが重視されてきたのであって、学業一筋で頑張ってやっていても自己努力でそういう「必要とされる能力」を身に付ければいいのです。別に、学業を放り出してまで、バイトに精を出せとか、部活に打ち込めなんて、誰も頼んでもいないのです。どんな方法であろうと、需要側の要求を満たせるような能力を培っておけばよいことです。それが備わっていないのであれば、採用から漏れても止むを得ないではありませんか。


「自分が努力してきた道」を評価して欲しい、ということは理解できるのですが、努力してきた過程と得られる結果とは必ずしも一致するとは限らないのではないでしょうか。例えば、オリンピック代表選手を決める時にも、努力をどれほど続けてもダメな場合も多くあると思います。殆どの人たちは、自分の努力を評価して欲しいと願いつつも、冷酷な結果が出てくると思います。自分がどれほど「頑張ったんだ、やれるだけやったんだ」と思っていても、時の運もあると思うし、無残な結果が待っていることも多いでしょう。他の誰かが獲得してしまえば、自分にはそのポジションは与えられることはないのです。それは、自分なりの評価とは全く別なものであると思います。仕方がないのですよ。大企業の新規採用枠にしても、数に限りがあるのですから、「努力した全員」には与えられるものではないのです。プロ野球の1軍選手になれない限り、一軍の試合には出られないのです。一軍の選手の数には限りがあり、努力したからといって全員が一軍選手になれるなんてことはないのです。


全て客観的な指標で採用を決めてくれ、ということも、どのような指標を用いようとも、不満が出るのではないかと思えます。それに、人物を正確に表わせる指標なんて、簡単に作れないのではないかと思えます。採用側の時間的な問題とか、労力とかコストの問題などもあって、完璧な人物評価なんて難しいと思います。自分が「大学の勉強は誰にも負けない、人の何倍もやったんだ」という強い自負があるのであれば、それを最大限アピールすればよいのです。「私はバイトに精を出しました」という人と、「私は○○学の勉強には自信があります」という人がいて、どのような人物を選ぶのかは採用側が決めることです。


結局のところ、自分がこういう勉強の仕方でこんなに頑張ったんだから、「努力の対価として、こうして欲しい」という、何らかの成果を暗に求めているのであり、「真理探究」には不似合いな話なのではないかと思えます。本当に真理探究を目指すのであれば、自分が他の仕事をしながらだろうが、何十年かかろうが、「何の対価も求めず」ただひたすら探求を続ける、ということだと思います。それが学問ではないかと思います。




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3 コメント

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怖いんだよね (ぐだ猫)
2006-07-31 00:48:42
「~~大学に入れたなら、一流企業はもう決まったも同然」 っとかそういう安定感が欲しいんだろうなあ。 自分もある大学に編入する身分なもので、ヒトゴトとは思えません。



ちょっと、やっぱり甘えが見える気がします。最終的にはやっぱり本人次第だと思うんです。努力したって、結果が出ないときもある、それは仕方の無い事っていう、淡々とした残酷さは早いうちに気付けないと悲劇を生むかもしれませんね。
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Unknown (ncd108)
2006-07-31 10:35:32
寡占状況を作っている特定の「有名ブランド私立」出身の私は何を言えばいいでしょう(汗)・・って。



・・まぁ、大学のあり方をそのように歪めているのは、社会自体(各家庭の親の多く)でもあるのです。いいか悪いかは別にして。

その歪みは、幼稚園の「お受験」から始まってしまっているので大学だけ変えてもしょうがないんですよね。



文科省の"おかげ"で、中学受験などの戦争は余り衰えてない感じですが、一方少子化で大学全入時代は始まっている訳で・・・格差なんてこた言いたくないけどこの流れは必然的に「ごく一部のエリートとそれ以外大多数」になっちまってる感もありますね。益々「真理探究」がお題目化されるような。

その絵を描いてるのは新自由主義派?・・・なんて話で一本映画くらい作れそうだな(苦笑)
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Unknown (まさくに)
2006-07-31 21:20:30
>ぐだ猫さん



多分努力が無駄になる、ってことはないんじゃないかと思っています。それはやった人にしか判らない何かの財産というか、特別な価値があると思います。それを決めるのは、その人の考え方や生き方なんではなかろうか、と。



>ncd108さん



どうも(笑)

有名ブランド私立がここにも・・・そうでしたか。

「真理探究」を掲げるなら、就職がどうのという話は別なのではないかな、と感じたんですよね。



真理探究云々だなんて奇麗事を言わずに、「勉強ばっかりやってきたから、就職に自信が持てない」ってはっきり言った方がいいのではないかと。結局「自分の尺度」で他人と自分を比較して、自分の優位性だけを見ているようなものだ、とも思いました。
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