オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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あこぎな楽天

2015-08-25 01:38:25 | 独り言

楽天市場や楽天ブックスで買い物をすることが少なくないのですが、酷い目に遭わされました。
先日に楽天ブックスで期限付きのポイントを利用してポール・ニューマンのDVDを注文したのですが、3週間ほど待たされた挙げ句に取り寄せができずにキャンセル、もちろん楽天ブックス都合でのキャンセルですので利用をしたポイントは戻ってきますが、その戻し方が殿様商売すぎます。
期限が切れたポイントは通常ポイントとして返還がされますが、しかし期限が残っているものは元の期限のままでの返還となり、今回の件では3000ポイント以上を10日の期限で使わなければ失効をしてしまいますので、捨てるぐらいならと今に欲しくもないものを買う羽目となりました。
問い合わせをしたところの回答は「例え1日でも有効期限内であればその期限での返還となる、それがルール」とのこと、いつにキャンセルがされるかも分からないのですから、つまりは期限付きのポイントを使った場合は注文が執行をされるまでは毎日チェックをしなければならないことになります。
そこを指摘すると「チェックをしてください」とのこと、呆れて開いた口がふさがりません。
少しぐらい安くても、稼いだポイントを失効させられるようなことになれば意味がありませんので、これまではAmazon、Yahoo!ショップに比べて楽天市場、楽天ブックスでの購入がやや多かったのですが、今後はその割合を減らしての楽天離れにより身を守ることにします。


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笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 船岡、亘理、多賀城の巻

2015-08-25 00:27:10 | 日本史

 

三日目はデーゲームがあるために史跡めぐりは午前中まで、よって例によって始発での始動です。
目的地はレンタサイクルのサービスを見つけられなかったところが多かったために頼りになるのは自分の足のみ、球場での撮影のためのカメラもありましたので普段よりも重い荷物を背負って、炎天下の中をえっちらおっちらと歩いてのダイエット、体作りとなりました。
それもこれもカーナビがあってこそ、もう手放せません。

まずは船岡、船岡城跡です。
前回に訪れたときには長い坂をダラダラと登ったような記憶があったのですが、今回は大型の歩道橋を渡っての登城となりました。
船岡城とは言いながらも一国一城令からして城であるわけにはいかず、要害、あるいは館と称しての伊達氏の家臣、一家の家柄で5157石の柴田氏の「居城」です。

この船岡城跡公園は、樅ノ木が有名です。
大河ドラマにもなった山本周五郎の「樅ノ木は残った」の樅ノ木で、そもそも船岡城は伊達騒動の悪役、原田甲斐宗輔の居城でした。
その当時からあったものではなく、どうやら大河ドラマの撮影の際に植えられたとのことですが、それを感じさせない威容を誇っています。
手前にあるのは山本周五郎の夫人の手による、文学碑です。

伊達騒動は伊達政宗の十男である兵部宗勝が、藩主綱村が幼いことに付け込んで実権を握ろうとしたことで宗勝派、反宗勝派が対立をし、最後は幕府の審問の場での斬り合いとなり、宗勝派の原田甲斐、反宗勝派の伊達宗重は伊達稙宗の十二男である亘理元宗の流れを汲む涌谷伊達氏の当主、江戸留守居役の蜂屋可広、そして柴田外記の死をもって反宗勝派の勝利、宗勝の一関藩は改易、宗勝が土佐に流されて幕を下ろしました。
この柴田外記は土佐佐竹氏の親直の次男、親直は長宗我部元親の三女の阿古姫を娶ったことで、つまりは元親の女系の孫になりますので見逃す手はありません。
親直は元親を継いだ盛親に従って大阪の役で討ち死にをし、夫とともに大坂城に入っていた阿古姫は伊達氏に捕らえられたものの助命をされて侍女となり、長男の元成は五十嵐氏の、次男の外記朝意は柴田氏の、いずれも伊達氏の名家を継ぎましたのでさすがの元親の血、といったところです。
よって目指すは柴田外記の供養塔、コースター乗り場の左脇の道を登っていけば突き当たりに看板があり、その左手をさらに登っていけば行き着きます。
途中にそれなりの勾配はありますが道が整備をされていますのでさしたる苦労もなく、途中の二の丸跡は原田甲斐が政務を執った館がありましたが騒動の後に破却、土台の土を三尺も掘削して捨てたとも言われていますので、伊達氏からすればやはり相当に憎まれた原田甲斐だったのでしょう。
絹引の井戸は絹が出たものの貪欲な者が馬にくくって引き出したところ以降は出なくなった、と伝えられています。

船岡城跡公園は桜の名所としても知られており、山頂にある船岡平和観音像も有名らしく、そこに行くためのコースターがあります。
時間が早かったからなのか、あるいは見てのとおり乗るにはやや怖さを感じさせる老朽化から運行を停止しているのかは分かりませんがその姿は見られず、もし運行をしていれば降りてすぐのところにあるのが柴田外記の供養塔、もっとアピールをしてもよいのではないかと思います。

ある意味で皮肉な話ではありますが、原田氏、その後に柴田氏の居城であったことも理由なのでしょうが、原田甲斐と柴田外記の供養塔が仲良く並んでいました。
本人たちからすれば不本意かもしれませんが、没後300年の昭和45年に建立をされたものですから、ノーサイドといったところなのでしょう。
それでも40年以上も経っているのが感じられない新しさで、地元の方が丁寧に手入れをされているのだと思います。

まずは右、原田甲斐宗輔の供養塔です。
原田氏の祖を辿れば伊達氏の初代朝宗のときから仕えた宿老で、宗輔は伊達氏の一族である桑折氏から入った宗資の嫡男、宗資は伊達政宗の股肱の臣で、朝鮮の役で若くして病死をしたことで政宗を嘆かせた宗時の養子ですから、伊達氏にとっては重臣中の重臣、の家柄と言ってよいでしょう。
伊達騒動にてお家断絶となりますが、その名誉回復の一助となったのが「樅ノ木は残った」であり、宗勝派と目されながらもお家大事で自らを滅した存在として描かれています。

その左に並ぶのが、柴田外記朝意の供養塔です。
トップの写真が分かりやすいと思いますが、中央に柴田氏の二つ巴、右に佐竹氏の五本骨扇に月丸、そして左に長宗我部氏の七つ酢漿草が刻まれています。
柴田外記の出自が強く意識をされており、これが見たいがための船岡城跡でした。

そこから来た道とは違うルートで下ってみれば、チープな模擬門とだだっ広い三の丸跡です。
ここから曲がりくねった下り坂がありましたので、前回に訪れたときはおそらくこちらから登ったのでしょう。
このいわゆる「三の丸門」は記憶になかったのですが、そのときのネガを引っ張り出しても見当たりませんでしたので、以降に建てられたものだと思われます。

大光寺は柴田氏の菩提寺です。
本堂の裏手の岩窟の中に安置をされている五百羅漢が有名らしいのですが、興味がないのでパス、目指すは柴田外記の墓所です。
お寺の方に境内に入らせていただくご挨拶に伺ったところ、墓所まで案内をしていただきました。

見た感じは新しめでこちらも供養墓なのかとも思ったのですが、命を落とした翌日に荼毘に付されて、遺骨がここ大光寺に眠っているとのことです。
理由はどうあれ大老である酒井忠清の屋敷で斬り合いをしたのですからお家断絶となってもおかしくはなく、しかし伊達氏は綱村が幼少とのことでお咎め無し、柴田氏も嫡男の宗意が家督を継いで家を繋いでいますから幕府にも後ろ暗いところがあったのではないかと、そこを突いたのが「樅ノ木は残った」でもあります。
かなり前に、調べてみれば1989年10月に読んでいるのですが、また読みたくなってきました。

船岡を後にして向かったのは亘理、亘理伊達氏の本拠だったところです。
ここもレンタサイクルを取り扱っているところを見つけられなかったので、目的地の大雄寺まで3キロ弱をてくてくと歩く羽目となりました。
その途中で見つけたのが亘理要害跡で、一国一城令により要害と称しただけで、実際は亘理城です。
亘理伊達氏の居城であり、跡にはありがちな亘理神社がありました。

そして汗だくになりながら到着をした大雄寺は、亘理伊達氏の菩提寺です。
亘理元宗が亘理城に移るまで亘理氏の居城だった小堤城のあったところで、周りをざっと歩いてみたところ土塁らしきものはありましたが、城跡の面影はあまり残されていません。
やはりここは亘理伊達氏の墓所、伊達成実に会いにそそくさと向かいました。

境内の左手奥に、亘理伊達氏の墓所があります。
家祖である実元、その嫡男で初代の成実から13代邦実までの墓が整然と並んでいます。
亘理氏は千葉氏の庶流である武石氏が亘理に入ったことで亘理氏を称しましたが、14代宗隆のときに伊達稙宗の十二男である元宗を養子に迎えたのは跡継ぎに恵まれなかったことで稙宗の側室になっていた娘の子、つまりは外孫に跡を継がせたことによる血の繋がりと、伊達氏の庇護に入ることが目的だったのでしょう。
しかしこの亘理氏は元宗、重宗と続いた後に定宗のときに伊達氏に復して涌谷伊達氏となり、その子が伊達騒動の伊達宗重です。
よって亘理伊達氏は亘理氏との関係はなく、亘理を治めたことから亘理伊達氏と呼ばれていますが、しかし3代宗成は宗重の娘を正室に迎えていますし、14代邦成は岩出山伊達氏からの養子ですが遡れば涌谷伊達氏に繋がりますので、血脈という点では亘理氏と言えなくもありません。

余談ではありますが、こういった案内板があると助かります。
割合から言えば案内板がなくとも誰の墓かが分かるように脇に説明版やら棒やらが立っているものも少なくないのですが、先の仙台松前氏の墓所のように全く何もないところもあり、そういった場合には事前に調べておいた戒名と突きつけ合わせるぐらいしか手がありません。
その戒名も風化で読めなければどうにもならず、こちらではそれもなく案内板が無くとも何とかなりましたが、それでも答え合わせで安心ができますので心強いです。

さっそくに初代成実の霊屋です。
きらびやかな装飾はさすがに初代の扱いで、中に位牌と木像が安置をされていますが、公開は年に二日間のみとのことでした。
成実は片倉小十郎景綱とともに政宗の右腕、左腕であり、毛虫の前立てが示すように勇猛果敢な武将として知られる一方で、「成実記」を遺すなど文でも歴史に名を刻んでいます。
政宗の母方の従兄弟であり、父の実元は政宗の大叔父という複雑な血筋ですが、これだけ血が濃くとも優秀な人物だったのは伊達氏にとって吉以外の何ものでもありません。
そして成実と言えば三浦友和、独眼竜政宗は偉大です。

成実の霊屋は実元、5代実氏のそれとともに亘理町の指定文化財となっており、その後に成実のものは宮城県指定有形文化財に昇格をしています。
竜雷太の実元は天文の乱において兄の晴宗と対立をしますが、その後は晴宗、輝宗、政宗の三代に仕える伊達氏の重鎮となりました。
このあたりの経緯は、福島の巻をご参照いただければ複雑な血筋とともに分かりやすいのではないかと思います。
その墓は陽林寺にありますが、11代宗賀が位牌を移してこの霊屋が建てられました。
5代実氏がなぜに特別扱いで霊屋があるのか、先代の基実が跡継ぎが無いままに20歳で若死にをしたことで一悶着があった後に岩出山伊達氏より婿養子に入った実氏は中興の祖とも言われているようですが、これといった事績は案内板にも記されていません。
左が実元、右が実氏です。

成実は理由は不明ながらも一時期に伊達氏を出奔しており、その際に居城としていた角田城を接収され、抵抗をした家臣は殺されました。
独眼竜政宗ではそのときに妻子も殺されたとの描写がされていましたが、しかし妻子ともに既に病死をしていましたのでこれはNHKの創作です。
その後に生まれた嫡子も早世をしたことで、政宗の九男である宗実を養子として2代としました。
宗実は領地問題や山形藩との小競り合いに際しての家臣の切腹に於いて仙台藩2代で兄の忠宗に強硬に抗議をするなど、硬骨漢な人物だったようです。

宗実の嫡男の宗成が3代を継ぎましたが、岳父の宗重と叔父の宗勝の対立の中での動きは聞こえてきません。
その跡を嫡男の基実が相続をして4代となったものの早世をし、岩出山伊達氏より実氏が入って5代となったのは先に書いたとおりです。
この際に領地を半減させられるところを基実の母が実元、成実の功を盾に頑強に抵抗をした天和の訴願は、その資料がまとめられて亘理町の文化財に指定をされています。
基実の妹を正室とした実氏は政宗の曾孫にあたり、政宗の四男の宗泰の流れで、どのみち成実の血はあっさりと絶えていますのでこだわりはありません。
その後は実氏の嫡男である村成が6代、その庶長子である村実が7代、その嫡男である村純が8代となりますが、村純が隠居をした際に子の村氏がまだ幼かったために弟の村好が9代を継ぎ、家督を返される形での村氏が10代、その嫡男で実元の霊屋を建てた宗賀が11代、その嫡男の宗恒が12代とこれと言った事績はありませんが順調と言えば順調です。
宗恒の嫡男で13代の邦実には六男がありながらもいずれも早世をしたことで、再びに岩出山伊達氏より養子を迎えて14代の邦成となり、この邦成のときに幕末を迎えました。
写真は上段左から宗成、基実、村成、村実、村純、村好、村氏、宗賀、宗恒、邦実です。

亘理駅に隣接をする形で亘理町立郷土資料館、その名も悠里館があります。
期待をしていたのですが亘理伊達氏のものよりも考古に近い展示が中心で、個人的な嗜好としてはちょっとガッカリでした。
またその建物は城郭を模してはいますが、これが亘理城の姿を伝えているわけではありません。

この日は亘理で終わる予定だったのですが、船岡でも亘理でも一生懸命に歩いたことで時間に余裕があり、よって翌日を先取りしての多賀城です。
学生時代には間口が広かったのですが最近は守備範囲が戦国期に限定をしているために多賀城は日本100名城スタンプを押すためだけに訪れたようなもので、そんなこんなで適当に突っ走ったところで最初に見つけたのが立派な覆屋で囲われた多賀城碑です。
前半には平城京、蝦夷、常陸、下野、韃靼からの距離が、後半には多賀城の設置と修造が記されており、その最後にある天平宝字6年12月1日は西暦で言えば762年、今から1250年以上も前の石碑が遺されていることには驚きで、国の重要文化財に指定をされているのも当然でしょう。

多賀城は神亀元年、西暦724年に大野東人により築城をされて、行政を司る陸奥国府と軍事を司る鎮守府が置かれました。
約1キロ四方の敷地を塀で囲み、蝦夷との境界線上に位置するため、その蝦夷対策の最前線だったのでしょう。
多賀城跡は奈良の平城宮跡、福岡の太宰府跡とともに日本三大史跡に数えられています。

その多賀城跡は広大な野っ原としか言いようがないのですが、政庁跡にはここそこにその礎石が遺されています。
中央には一段高くなった正殿跡があり、しかしこの基壇部分は復元とのことです。
何か一つでも建物があればグッときたかもしれませんが、ふーん、といった感じで、好きな方には申し訳ないのですがそそくさと後にしました。


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【2015年4月 福島、宮城の旅】
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