オリオン村(跡地)

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笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 松島の巻

2015-09-01 00:13:09 | 日本史

 

この日もデーゲームがあるために史跡めぐりは昼過ぎまでで、前日に予定を前倒しで多賀城を見て回ったことで松島のみ、やや余裕のある日程となりました。
ただなかなか見つからないところもありましたのでいってこい、さらにはグルメにこだわったことで試合にやや遅刻はまた別の話です。
目的地が駅の周辺にまとまっているので徒歩で問題なし、久しぶりの松島を堪能させてもらいました。

まずは天隣院、伊達政宗の長女で徳川家康の六男、忠輝の正室となった五郎八姫の菩提寺です。
五郎八姫は忠輝が改易となったことで離縁となり、その後は再婚をすることなく仏門に入りその長すぎる残りの生涯を仙台で過ごしました。
尼僧姿の五郎八姫像と位牌が安置をされており、大丈夫でしょ、とのお寺の方のお言葉に甘えての撮影となります。

天隣院から10メートルほども歩けば、左手に五郎八姫の仮霊屋への登り口があります。
ここに仙台藩4代綱村が大叔母である五郎八姫の霊屋を建てましたが明治に入ってから解体をされてしまい、今は14代宗基が建立をした供養墓があります。
そんなこんなで霊屋ではなく、仮霊屋なのでしょう。
覆屋が絶賛立て直し中で、以前は白塗りだったものが見るからに木造、工事の方のお話によれば「白ペンキから漆塗りにレベルアップだよ」とのことでした。

苦労をしたのが伊達宗泰の供養塔です。
天隣院から瑞巌寺に向かう途中の洞窟に、との情報で探し回ったのですが見つからず、あちらこちらで聞き回り、ようやく五郎八姫の仮霊屋の背後にあるのを見つけました。
松島町の指定文化財となっている天隣院洞窟群の第2窟にあり、おそらくは東日本大震災の影響なのでしょう、webで探し当てた写真に比べるとかなり崩れています。
宗泰は政宗の四男で、政宗の叔父で水沢伊達氏の留守政景、長塚京三の嫡男である宗利、つまりは政宗の従兄弟にあたりますが、その宗利の娘を正室とし、かつて政宗が居城とした岩出山城を与えられて仙台藩一門衆第八席、岩出山伊達氏の初代となりました。
岩出山伊達氏の廟所は大崎にあり、そちらが本墓となります。

さらに苦しんだのが政宗の三男、秋吉久美子の猫御前の子である宗清の供養塔です。
現地にあった松島町教育委員会の手による案内板により存在を知ったことで慌ててタブレットで検索をしても写真も情報も拾えず、その説明板には宗泰と同じく天隣院洞窟群の第1窟にあるとのことでしたが、しかし第1窟にはそれらしきものが見当たりませんでした。
住職の方にお聞きしたところその場まで足を運んでいただいたのですが分からず、それならばと松島町教育委員会に電話をしたところ詳しいことは不明なので管轄をしている瑞巌寺に聞くようにとのこと、そして瑞巌寺に聞いてみれば天隣院の住職の方が分からないのであればこちらでも分からない、とガッカリな顛末です。
とりあえずこの辺りかな、と写真は撮ったものの、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらお願いします。

場所からすれば次は円通院だったのですが、時間が早くてまだ開いていなかったので五大堂です。
そこに至る朱塗りのすかし橋は「五大堂に参詣をするにあたり身も心も乱れのないように足下を見つめて気を引き締めるための配慮」で床が抜けています。
五大堂は坂上田村麻呂がこの地に建てた毘沙門堂がその初めで、その後に瑞巌寺の前身である松島寺が建てられた際に五大明王を祀ったことから五大堂と呼ばれました。
現在のものは政宗が再建をしたもので、雄健な桃山建築として国の重要文化財に指定をされています。

瑞巌寺は奥州藤原氏の保護を受けたとも言われている、国宝、国の重要文化財のてんこ盛りですが、その国宝である本堂はがっつりと保存修理の工事中でした。
よって普段は公開がされている本堂、中門、御成門は非公開で、同じく国宝の庫裡、そして陽徳院御霊屋が特別公開とありましたのでその代わりなのでしょう。
工事は平成20年から30年までの長期間に及びますが、あるいはラッキーだったかもしれません。
お寺の方も、この剥き出しの本堂を見るのは初めて、とのことでした。

青龍殿は瑞巌寺の寺宝が展示をされていますが内部の撮影は禁止ですので外観のみ、ただし建物自体に価値はありません。
そして庫裡は禅宗寺院の台所とのこと、京都の妙心寺、妙法院とともに日本三大庫裡の一つとされています。
正直なところあまり興味もなかったので迷ったのですが、ここを逃せばまた非公開となるのも惜しいと考えたのが結果的に大正解でした。

入ってすぐのところに、仙台藩主としての伊達氏の当主の位牌がずらりと並べられていました。
今だけの特別公開なのか、それとも普段は本堂で見ることができるのかは分かりませんが、3代綱宗から12代斉邦までの位牌です。
あまりに無造作に、という印象もあったのでお寺の方に確認をしましたが、もちろん本物です、撮影も大丈夫です、とのことでした。

3代綱宗は2代忠宗、野村宏伸の六男です。
長兄の虎千代丸が早世をし、また世子となった次兄の光宗も19歳で没したため、同じく庶子ながらも他の兄が他氏、他家を継いでいたことが理由か、綱宗を跡を継ぎました。
しかし不行状により幕府の命で21歳の若さで隠居をさせられ、その嫡男の綱村が僅か2歳で4代となったことが伊達騒動の遠因となります。
この綱宗の隠居は後西天皇と従兄弟の関係にあったことから有力大名と朝廷が結びつくことを嫌った幕府の陰謀、との説もあるようで、その3年後に後西天皇も譲位をしています。
綱村には跡を継ぐ子が無かったことで、叔父の宗房の嫡男で、従兄弟にあたる吉村が5代となりました。
先代の綱村が「中興の祖」と呼ばれて藩政に功績を残したものの代償として財政の悪化をもたらし、その財政を立て直したことで吉村は「中興の英主」とされています。
その後は吉村の四男の宗村が6代、その次男の重村が7代、その嫡男の斉村が8代となりますが、このあたりから怪しくなってきます。
斉村は23歳で没し、数え1歳で9代となった周宗も14歳で早世、それを三年間伏した後に実弟の斉宗が10代となるもやはり24歳で継嗣の無いままに病死をしてしまいます。
そのため斉宗の曾祖父の6代宗村の弟である村良の孫の斉義が11代となり、しかし斉義も30歳の若さで没して子の慶邦が3歳だったことで従兄弟の斉邦が12代に、その斉邦も25歳とこれまた若死にで、甥の慶邦に政権が戻る形で13代になりましたが戊辰戦争の責めを負って隠居、四男の宗基が14代となり明治維新、最後の藩主となりました。
写真は上段左から綱宗、綱村、吉村、宗村、重村、斉村、周宗、斉宗、斉義、斉邦です。

墓所でもそうですが、誰のものかが分からない場合は戒名を控えて、帰ってきてから調べることにしています。
こちらの何の説明もされていなかった位牌も同じようにしたのですが、開けてびっくり玉手箱、藤原高房と伊達輝宗のものでした。
仮冒の可能性も高いのですが藤原氏魚名流、あるいは山蔭流を称する伊達氏は遠祖を遡ると藤原鎌足、不比等、藤原北家の祖である房前、魚名、鷲取、藤嗣、高房、そして山蔭と続きますので、ここから伊達氏初代の朝宗までは300年も離れてはいるものの、伊達氏にとっては大切な先祖の一人です。
そして輝宗は言わずと知れた政宗の父ですから、なぜにこういった扱いなのか、その場で分かっていればお寺の方に聞いたのですが、今となっては後の祭り、よく分かりません。
写真は左が高房、右が輝宗です。

さらに奥に進むと、仮本堂となっている大書院があります。
普段であれば本堂にあり見ることのできない御本尊、三代開山木像、そして藩祖政宗、2代忠宗の大位牌が公開をされていました。
これも危うく見逃すところで、後で気がついていれば悔やんでも悔やみきれなかったでしょう。

さすがに3代以降のものに比べて色鮮やか、きらびやかで、貫禄を感じさせます。
説明板には『「瑞巌寺前黄門殿貞山利大居士」は瑞巌寺を建立した功績により名付けられ、六十二万石の大守に相応しい大きさ、華麗さで、迦陵頻伽を脇に彫出する。黄門は中納言の中国名。神儀は大名への位号で神と同義。揮毫は雲居。』とは政宗の、『「大慈院殿前羽林義山仁公大居士」。忠宗は政宗愛姫の嫡男。六十二万石の大封をよく守成した。松島には円通院、陽徳院を建立。両脇に迦陵頻伽を彫出、厨子には蓮池上に天女が飛翔する華麗な絵が描かれている。』とは忠宗の、説明がありました。
よく分からない単語もあったので調べてみれば、正しくは瑞巌寺の建立ではなく復興再建、迦陵頻伽とは上半身が人で下半身が鳥の仏教における想像上の生物、雲居とは政宗、忠宗が三顧の礼をもって迎えた住持、羽林は左近衛少将の中国名とのことです。
ちなみに今さらではありますが政宗には渡辺謙のイメージしかなく、また愛姫は桜田淳子、ではなく後藤久美子であることは言うまでもありません。
写真は左が政宗、右が忠宗です。

羅漢の間には政宗、忠宗に殉死をした家臣の位牌があります。
政宗のときには20人、忠宗のときには16人で、殉死が禁止をされる前でもあり、大大名ということでかなりの人数です。
当然に優秀な人物、当主に近い人物が殉死をしますので家からすれば痛手でもあり、独眼竜政宗でも輝宗が横死をした際に重臣の神山繁こと遠藤基信に政宗が殉死を禁じたシーンがあったような、また同じく輝宗に父が殉じながらも自らが重用をされなかったことで葛西大崎一揆の際に裏切った須田伯耆など、弊害もあったからこその禁止だったのでしょう。

陽徳院は瑞巌寺の雲居禅師の元で仏門に入った母、愛姫のために、忠宗が修行道場として建立をしました。
愛姫の廟所でもあり、孫の綱宗が御霊屋である寶華殿を建てています。
平成18年から3年をかけ創建当初の豪華絢爛な姿に復元がされており、政宗に負けず劣らずな伊達ぶりは、宮城県の重要文化財です。
中には政宗と愛姫の位牌が安置をされているとのことですが、こちらは非公開でした。
扉にある三つ巴は生家である田村氏の家紋の一つで、忠宗の三男、自らの孫である宗良に従兄弟の宗顕の代で途絶えてしまった田村氏を再興させるよう遺言をしたとのことです。
忠宗は母の遺言を守り宗良をもって田村氏を継がせて、田村氏は仙台藩の内分分知、支藩としての岩沼藩、後に一関藩3万石となりました。

松島の最後は円通院となります。
忠宗の次男で、19歳で早世をした光宗の菩提寺です。
山門は萱葺き一間一戸の薬医門で、開山と同じ時期に建てられたものと考えられているとのこと、松島町の指定文化財となっています。

三慧殿の中には光宗の騎馬像があり、その厨子には支倉常長が持ち帰ったとされる薔薇、見開きの右扉の上にある赤い花がそれで、その薔薇が描かれていることから後に庭に薔薇が植えられて薔薇寺と呼ばれているとのことですが、ざっと見て回ったところではそれらしきものはありませんでした。
小さくて分からないかもしれませんがトップの写真のとおりに他にも十字架やハート、クローバー、ダイヤ、スペードを模した装飾がされているのは愛姫、五郎八姫がキリシタンだったのが理由なのか、それ故に三世紀以上にも渡って扉が開かれることなく、秘蔵をされていたために保存状態がよいこともあり、国の重要文化財に指定をされています。
光宗の母は忠宗の正室の振姫で、その母は徳川家康の次女である督姫ですから、偏諱を受けた家光とは従甥(従姉妹の子)の関係となります。
この光宗と家光を従兄弟としている記述も少なくありませんが、督姫には娘と同じ名前の振姫という妹がいたために、それと混同をされているのでしょう。
江戸城内で急死をしたことから優秀な光宗を怖れて幕府が毒殺をした、という風説もあるようですが、時代背景からすれば考えづらいように思います。

三慧殿の右を抜けて時計回りに歩いて行くと、左手に天隣院と同じく洞窟群があります。
そこにあるのが伊達宗高の供養塔、宗高は政宗の七男です。
刈田、柴田など3万石を拝領して村田城を居城としたことから村田伊達氏を称しましたが、しかし疱瘡で20歳にて病没、無嗣断絶にて村田伊達氏は一代で途絶えてしまいました。
この宗高は蔵王刈田岳が噴火をして大きな被害があったときに火口付近で祈祷を行い、ほどなくして噴火が収まり、その数年後に若くして死したことから領民からは命を引き替えにしたと、伝説の名君として慕われているとのことです。
こちらも東日本大震災の影響か倒壊が目立ちますが、中央の宗高を囲むようにして赤松兵部など10名の殉死者の供養塔が並んでいます。

政宗以降の系図は、上記のとおりとなります。
宗清は吉岡城に入り吉岡伊達氏となりますが後継がなかったことで断絶、宗泰は岩出山伊達氏の初代、宗高は村田伊達氏でやはり無嗣断絶、宗良は田村氏、宮床に居を構えた宗房は宮床伊達氏の初代、村良は登米伊達氏に養子に入り、村資は宗良の田村氏の後継に、宗充は兄の跡を継ぎ登米伊達氏と、いずれも万石を領する大名クラスの一門衆です。
その他にも片倉氏、茂庭氏といった小大名な家臣を抱える伊達氏は、さすがに六十二万石の大大名といったところでしょう。
凡例は赤字が藩主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。


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2 コメント

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見所満載、あー松島や (あーるつう)
2015-09-01 09:29:17
補修工事までが幸いしたとは、良いタイミングでの松島巡りでしたね。晴天の青空に新緑がよく映えます。
歴代藩主打ち揃ってのお出迎え(位牌で、ですが)、まるで温泉場の射的場の的?のごとく並べてある様子は「おおらか」の一言に尽きますね。退色している様子があまりないのは、通常は光の届かない状態に置かれているからではないかと。
いずれにしてもじっくり写真、メモに取ってお行きなさいという亡き人々からの心遣いだったのでは。

ちょうど昨日、樅の木は残ったの再読が終わったところでした。読めば読むほどに“ひどい話”とした言いようがなく、権力者のつまらない欲に翻弄される人々の人生を思って流涙を禁じ得ませんでした。
以前、大分で恐らくは殉死をしたであろう老いた武士と思われる男性の遺体が入った木桶がかつての城近くの土中から発見された場所に行き会ったことがあります。本人が殉死を望んだのであれば仕方なしですが、周囲に同調しなければならなかったとすればこんなに悪しき風習はないと思います。

試合に遅刻(笑)してまでこだわった食の巻も楽しみにしています。
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お返事 (オリオン)
2015-09-02 00:15:22
酒井忠清、ですね。
下馬将軍、宮将軍擁立など評判の悪い人物ですが、権力を握ったことの代償、なのでしょう。
好意的な評価も少なくないようです。
殉死については嫉視から無理矢理、といったケースもあったようで、阿部一族、なんかはそれがテーマになっています。
光宗のそれのように、表にでなかったからこそ当時の輝きが残っているものは少なくないのでしょう。
そのあたりは微妙ですね、霊屋や位牌などは別の次元の話ですが、絵画などを秘蔵することで品質を保つ側面と、人類の財産が日の目を見ないことの天秤、になりますで・・・
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