オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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お家騒動は続く

2015-08-04 01:34:04 | 千葉ロッテ

重光アニキ(以下アニキ)が取締役を解任されてから始まったロッテのお家騒動は、アニキが一族とともに重光パパ(以下パパ)を担ぎ出しての重光ジュニア(以下ジュニア)に対するクーデターが失敗をしたとも報じられましたが、次のステージとなる臨時取締役会に向けての多数派工作が盛んとなっているようです。
ちょっと前の大塚家具のそれに近しい感じもありますが、企業規模が違いますのでその影響度は比べものになりません。
御年92歳のパパの判断能力が不安視をされていますがジュニアに対する絶縁宣言に近いビデオも公開をされましたし、両者ともに一歩も引けない状況になってしまったようです。
正直なところどうなろうが知ったことではなかったりもしますが、どっちに転ぼうが球団経営に支障が出ることは避けられそうもなく、不安はその一事に尽きます。
とにかく主導権を握ることに精一杯で野球どころの騒ぎではないでしょうから、泥沼が続けば続くほど来季に向けての出遅れとなるのでしょう。
最終的にジュニアに軍配が上がればイメージ回復のための球団への投資という可能性も無いわけではないでしょうが、しかし早速に週刊誌に報じられている身売りの可能性の方が高いのではないかと、もっともバブルのみで実体経済が上向いていない現状からすれば引き取り手を見つけるのに相当な苦労をすると思われます。
また「ロッテグループは韓国企業」とのジュニアの発言への日本での風当たりが強くなるであろうことは、昨今の日韓関係を考えれば想像に難くありません。
とにもかくにもアニキが勝とうがジュニアが勝とうが、はたまた共倒れになろうが、とにかく球団を巻き添えにしないことだけを願う、ただそれだけです。


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笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 二本松の巻

2015-08-04 00:48:12 | 日本史

 

今回の史跡巡りは二本松からスタートです。
まずは福島に入りましたのでそこからとも思ったのですが、巡るときは遠くから、の鉄則で来た道をやや戻っての桜の城下町です。
二本松は室町幕府の三管領の一である畠山氏の庶流、とは言いながらも本来は嫡流だったものが南北朝の動乱の中で畠山高国、国氏親子が自害に追い込まれたことで国氏の子である国詮が奥州に土着をした二本松氏の本拠であり、居城である二本松城は国詮の嫡男の満泰が築きました。
その二本松氏は義継のときに伊達輝宗が横死をした粟之巣の変事をきかっけに政宗に滅ぼされ、その後は上杉氏、蒲生氏、加藤氏らを経て丹羽氏が治めて幕末を迎え、戊辰戦争に際しては白虎隊ほどの知名度はありませんが、二本松少年隊の悲劇も今に語り伝えられています。

二本松は江戸期に丹羽氏が11代、200年以上にも渡って治めた地ですが、二本松少年隊のネームバリューには敵いません。
もっとも当時は隊に名前はなく、戊辰戦争戦没者の50回忌法要に際して名付けられたとのことです。
二本松駅、そして二本松城の正面に、その勇姿が訪れる者を迎えてくれます。

そして二本松城は、日本100名城に名を連ねています。
遺構は石垣ぐらいですが、1982年に箕輪門と櫓が復元をされました。
箕輪門は二本松城の正門であり、丹羽氏としての初代城主である光重、織田信長の重臣だった丹羽長秀の孫にあたりますが、この光重のときに造られたものです。

本丸に向かう途中にある日影の井戸は、千葉県印西市の月影の井戸、神奈川県鎌倉市の星影の井戸と合わせて、日本の三井と称されているとのことです。
蓋はされていますが、約20メートルの深さに豊富な湧き水を溜めています。
また本丸下南面大石垣は二本松城に築かれたもので最も古い石垣の一つで、いわゆる「穴太衆」の手によるものとは説明板による説明でした。

本丸はかなりな高さの石垣を誇り、10万石の大名にしては過ぎたる規模のように感じられます。
蒲生氏郷、加藤嘉明の時代にもそれなりの拡張はされましたが、大規模な改修は丹羽氏の代になってからですので名門の意地、それに配慮をする幕府の意向もあったのでしょう。
建造物は遺されていませんが、きちんと整備がされているのが好印象です。

本丸には天守台跡、東櫓台跡、西櫓台跡があります。
いずれも本丸の石垣と同じ時期、1993年から1995年にかけて復元、整備がされました。
広さとしてはかなり狭いものですから大きな建物があったとは思えず、江戸期は山麓の居館が政治の中心になっていたとのことですから、象徴的なものだったのかもしれません。

本丸から逆方向に下っていくと、天守台下西面二段石垣にとっくり井戸、そして搦手門跡です。
天守台下西面二段石垣は一部が露出をしていたものが本丸の整備工事の際の発掘調査で全容が確認できたとのことで、やはり穴太積みとなっています。
とっくり井戸は下にいくに従って間口が広がっていることからその名が付けられており、一時は場所が不明になったものが2000年の発掘調査で発見されました。
いわゆる大手に対する裏手、にあたる搦手には搦手門で、蒲生氏時代の掘立柱であった門を加藤氏のときに石垣を用いて整備をしたとはこれまた説明板の受け売りです。

丹羽神社には丹羽氏が祀られており、周りの草刈りをされているお爺ちゃんが休憩中でしたが、撮影のために場所を空けていただきご迷惑をおかけしました。
そして三の丸跡は桜祭りの会場となっており、言うほどに桜が満開といった雰囲気はありませんでしたが、夜桜見物が楽しめるとのことです。
平日でもあり、また時間が早かったことで閑散としていましたが、しっかりと出店はずらりと並んでいました。

次に向かったのは大隣寺、丹羽氏の菩提寺です。
そもそもは当時に白河藩主だった丹羽長重が父の長秀の菩提を弔うためにその白河に建立をしましたが、子の光重がここ二本松に移封となったことで同じく移ってきました。
その後は二本松藩主丹羽氏の菩提寺として、何度か場所を変わりながら今に至っています。
ちなみに寺名は長秀の戒名である総光寺大隣宗徳によるものです。

本堂の左手には御霊屋あり、おそらくは位牌が安置をされているのでしょう。
その奥には丹羽氏の墓所があり、二本松藩主の初代である光重から理由は分かりませんが2代長次を除いた9代までの墓があります。
10代以降は明治維新で藩が無くなったこともあり、墓所は東京にあるようです。

二本松藩としての初代藩主になる光重は、丹羽長秀の孫にあたります。
長秀は織田信長の重臣で本能寺の変の後の清須会議で羽柴秀吉の側に立ったことで若狭、越前、加賀の123万石を領しましたが、その長秀の病死で跡を継いだ長重は秀吉にいろいろと難癖をつけられて越前、加賀を取り上げられてしまい、最後には若狭をも失って加賀の一郡にも満たないところまで落ちぶれてしまいました。
その長重は隣接をする前田氏との確執から関ヶ原の戦いでは西軍に与して改易の憂き目に遭い、しかし名門だったからなのか常陸古渡で大名に復帰、その後は常陸江戸崎、陸奥棚倉を経て陸奥白河10万7千石までになったのですからそれなりの人物だったのでしょう。
そして三男の光重が陸奥白河から同じく陸奥二本松に移封となり、幕末まで11代を数えて明治の世を迎えました。

2代藩主は長次、光重の嫡男です。
子が無かったために弟の長之が3代藩主となりますが当時としては老齢にさしかかる既に42歳であり、僅か2年後に死去しましたのでこれといった事績はありません。
4代藩主は長之の長男である秀延ですがこれまた子が無いままに39歳で没したことで、長秀の六男である長紹の後裔にあたる高寛に長之の娘を娶せて5代藩主とします。
その後は6代藩主に高庸、7代藩主に長貴、8代藩主に長祥、9代藩主に長富、10代藩主に長国と無難に血を繋いでいき、長国は奥羽列藩同盟に加盟をして明治新政府に抗い、破れたことで隠居、石高も5万石まで減らされて跡を養子の長裕に明け渡すこととなりました。
そして長裕が、二本松藩としての最後の藩主、11代です。
写真は上段左から長之、秀延、高寛、高庸、長貴、長祥、長富になります。

長秀からの血の繋がりは上記のとおりで、赤字が藩主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。
10代藩主の長国までは長秀の血を繋いでいますが、その長国に男子が無かったことで奥羽列藩同盟でともに戦った出羽米沢の上杉氏から養子を迎えましたので、11代藩主の長裕、その跡を継いだ弟の長保ともに長国の娘を配して女系として長秀の血は保たれているのかもしれませんが、男系としては上杉氏、つまりは吉良上野介のそれとなります。

やはり本堂の左手、やや手前には、二本松少年隊の墓所があります。
見た感じそれなりに新しそうですし形も整っていますので、さほど昔ではない時期に作られた供養塔なのかなと思いますが、実際のところはよく分かりません。
説明板によれば隊長、副隊長と14名の少年隊士の魂が眠る、とのことです。

香泉寺は二本松義国の墓があるとのwikipediaの記載に釣られて足を運びましたが、しかしそれらしきものは見当たりませんでした。
説明板によれば当寺に葬られたとのこと、滅んだ氏族ですので時代の流れの中で埋没をしてしまったのでしょう。
商工会議所のサイトにも「畠山氏10代義国の墓と位牌があるとされる」と、あまり歯切れはよくありません。

こちらは二本松駅の近くにある、二本松城の大手門跡です。
いわゆる二本松城からそれなりに離れた場所ですので、城域はかなりの規模を誇っていたのでしょう。
本格的な櫓門だったようですが初代藩主の光重のときから建造を望みながらも財政事情からそれも叶わず、ようやくに9代藩主の長富のときに完成、しかし僅か30数年後の戊辰戦争の戦火で焼失をしてしまったのですから哀しい歴史の証人とも言えます。

称念寺は二本松氏の菩提寺です。
ただ現在の地に移ってきたのは丹羽光重の時代とのことですから、本堂も昭和に入ってからのものですし、代々に崇拝をされたといった感じではないのかもしれません。
それでもここに奥羽探題としての畠山氏(二本松氏)の累代墓所があります。

こちらは二本松義継の墓、と紹介をされることもあるようですが、実際は先に書いたとおり累代の墓所です。
二本松氏22代当主が昭和8年に改葬をしたもので、両脇に並んでいるのは粟之巣の変事で義継と運命をともにした家臣の霊を祀った供養墓になります。
かなり前に来たときにはここに至る道は草が生い茂っていて蛇が出て駆け下りた記憶があるのですが、まだ春先だったということもあってか、きれいに整備がされていました。

顕法寺には二本松義継の墓がある、とのあやふやな情報で足を運びましたが、残念ながら空振りでした。
ただ瓢箪から駒ではありませんが、代わりに加藤明利の墓所に巡り会いましたので無駄足にならずにラッキーだったと思います。
明利は丹羽氏の前の二本松藩主で、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる加藤嘉明の三男です。

墓所は背後のやや小高い場所にあり、夏場にもし手入れがされなければ蚊に注意です。
明利は当初は三春に入りましたがその後に嘉明の跡を継いだ兄の明成から二本松を預けられて、二本松城を拡張、改修しました。
しかし明成が家臣と対立をした会津騒動に連座し、直後に病死をしたことを幕府に疑われて改易をされてしまい、しかし家名は旗本として存続をしています。
その後に二本松に入ったのが、丹羽光重です。

二本松の最後は、二本松市歴史資料館です。
先の大手門跡の向かいにあるのですが、日本100名城スタンプは駅内の観光案内所で既に押していましたので、時間があればと後回しにした次第です。
個人的に惹かれるような展示もなく、申し訳ないのですが「ふーん」といった感じでした。
入口の左脇には上屋敷の石垣なるものが展示をされており、しかし説明板を読んでみれば上屋敷、つまりは江戸藩邸のものですから、この場所に元からあったものではありません。


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