オリオン村(跡地)

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李大恩がぐるぐる回る

2015-08-11 00:54:26 | 千葉ロッテ

明日の先発は李大恩、中5日です。
ここのところは6人で回していますし変則日程なわけでもなく、敢えて中5日にする必要はありません。
それでもそうすることからして春先に報じられたように本人の希望が理由なのか、前回も中5日だったことからして、その可能性が高いようにも思われます。
もしそうであればある意味で李大恩を中心としたローテーションが他の先発陣に与える影響はいかほどなものか、酷暑の夏場に普段よりも間隔が空くことでウエルカムという考え方もあるでしょうし、一方で週6試合の日程で一人だけ中5日で投げると他の投手が中7日になったり中6日になったりと調整が難しくなるなんてこともありそうで、同じように中4日を希望したミンチーに他の投手が迷惑をしたことで移籍を球団が止めなかったなんて話もありました。
いずれにせよ勝たなければ中5日だろうが中6日だろうがどうにもなりませんから、元祖勝ち運、援護運を発揮した、則本との投げ合いに勝利をしてくれることを願いましょう。


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笑顔咲くたび伊達な旅 史跡巡り篇 福島の巻

2015-08-11 00:01:20 | 日本史

 

初日の昼過ぎに福島に戻って、そして伊達巡りです。
遠くから攻めよ、の鉄則どおりに北上をして12キロの桑折町、18キロの国見町ですが、自治体の対応は対照的でした。
ともに廃寺などのために詳細な番地までが分からずにホームページから問い合わせをしたのですが、その番地までは分からずともランドマークで行き方を教えてくれた桑折町に対して、国見町は複数回の問い合わせに全くの無回答、もしどちらかに住むことになれば間違いなく桑折町でしょう。
こういった細やかな対応からして、行政サービスへの本気度が見て取れます。

その桑折町では、満勝寺跡にある伊達氏の初代である朝宗の墓です。
藤原氏魚名流の出身とされる朝宗は源頼朝の奥州攻めに従い勲功を挙げて、陸奥伊達郡を賜ります。
このことで伊達氏を称したとも言われていますが、実際に伊達氏を名乗ったのは次男の宗村とも、あるいは朝宗と宗村を同一人物とする説もあり、そのあたりは判然としません。
こちらの五輪塔は江戸期の仙台藩伊達氏によるもので、今は仙台にある満勝寺は当時は桑折にあった朝宗の菩提寺です。
トップの写真のとおり、大切にされていることがよく分かります。

その背後には、自然石の墓があります。
こちらが本来の朝宗の墓とも言われていますが、一方で源頼朝の、あるいは伊達氏の先祖の墓との説もあるようで、これまたよく分かりません。
いずれにせよ伊達氏が参勤交代の折りに墓参をしたと伝えられる、とは桑折町のホームページの説明です。

桑折寺山門は伊達晴宗が桑折西山城を破却して米沢城に移るに際して、城門を桑折寺が拝領して移築したものと伝えられています。
晴宗は朝宗から数えて15代、輝宗の父、政宗の祖父です。
桑折西山城は朝宗が居を構えたところで、また桑折寺は伊達氏の庶流である桑折氏の菩提寺であり、いずれも由緒あるものです。

次なるは国見町の伊達成宗の墓ですが、これが苦労をしました。
前述のとおり詳細な場所が分からず、googleマップを印刷して近くの建物を目印にしたのですがそれでも1キロ近くは離れており、方角と勘を頼りの心細さ爆発です。
幸いなことに一本道が多かったことで思っていたよりは簡単に案内板を見つけたのですがそこからが一苦労、舗装もされていない道を進めば突き当たりに貯水池のようなものがあったのですが右は野っぱら、左は山道でどちらに行けばいいかが分からず、とりあえず自転車を置き去りに山道を進んだものの数分で行き詰まってしまい、今度は右に行けば暫くして山肌に石垣を見つけて一安心、アップダウンのあるそれなりの道程だっただけに空振りに終わらずに助かりました。
願わくば貯水池のところに案内板を、たいしたコストにもならないはずです。

成宗は伊達氏12代、室町期の人物です。
おそらくは室町幕府8代将軍の義政、銀閣寺を創建したことで有名ですが、その義政の初名である義成から偏諱を受けたものと思われます。
つまりはどっぷりと応仁の乱の時期に被っていますが奥州まではその戦禍は広がらず、国分氏や大崎氏らとの抗争に明け暮れました。
このあたりは隠居後の館があったとのことで、しかし遺されているのは五輪塔の風輪の部分のみです。

ここから一気に南下をしての陽林寺は福島駅から7キロちょっとですので、25キロほどを二時間近くかけての移動となりました。
伊達氏14代の稙宗を開基とし、よってその稙宗と、稙宗の三男である実元の墓があります。
実元は政宗の重臣である成実の父、と言った方が分かりやすいかもしれません。

山門をくぐって左手に、その実元の墓があります。
父の稙宗は積極的な勢力拡大を目論んだ人物で、その一環として実元を越後守護の上杉定実の養子に送り込もうとしました。
稙宗の母は定実の姉であり、よって稙宗は定実の甥にあたりますので、その血筋を利用しようとしたのでしょう。
しかしそれに稙宗の嫡男、実元の兄である晴宗が反発をして両者が対立、陸奥の諸氏を巻き込んだ天文の乱が起きます。
最終的には稙宗の隠居で乱は終結をしますが、行きがかりから稙宗方だった実元は兄の晴宗の娘、つまりは姪を娶ることで和睦をすることとなりました。
そのため晴宗の嫡男である輝宗からすれば実元は叔父であり、かつ義兄でもあり、輝宗の嫡男である政宗からすれば実元は大叔父であり、かつ義叔父でもあるという複雑な関係は血を血で洗う戦国期ならではで、独眼竜政宗でもこの関係は冒頭で北大路欣也の輝宗、竜雷太の実元、そして大滝秀治の虎哉宗乙との会話がされたと記憶をしています。
その後の実元は一門の重鎮として輝宗、そして政宗を支え、亘理伊達氏の家祖とされています。

さらに左手、小道のようなものが繋がっている先に、稙宗の墓があります。
山門の脇に案内図がありますがちょっと離れていますので、分かりづらいかもしれません。
稙宗は幕府との結びつきで家格を上げるとともに、次男の義宣を大崎氏に、失敗はしましたが三男の実元を上杉氏に、また晴清を葛西氏に送り込むとともに、娘を蘆名盛氏、相馬顕胤、田村隆顕、二階堂照行、相馬義胤に入嫁させるなどして絶大な影響力を誇りました。
相馬氏などは顕胤の孫が義胤ですから祖父と孫が相婿になるわけで、しかし皮肉なことに嫡男の晴宗と対立をした天文の乱で一族だけではなく大崎氏、葛西氏、相馬氏らが両陣営に分かれて争うこととなり、また晴宗も父と同じく婚姻政策を推し進めるのですから似た者父子だったことによる嫌悪感だったのかもしれません。

そしてこの日の最後が慈徳寺、伊達氏16代、政宗の父である輝宗の首塚があります。
躊躇をするだけの距離がありましたし日も暮れかかっていたので迷ったのですが、翌日に残せばそれはそれで面倒なことになりますので強行をしました。
その途中のダラダラとした長い上り坂で両足に起こした痙攣、それはまた別の稿に譲ることとします。

首塚と呼ばれてはいますが、大きな岩の上に五輪塔の上部の二輪が載っています。
粟之巣の変事で二本松義継に拉致をされて横死をした輝宗は、政宗の手によりここ慈徳寺で荼毘に付されました。
よってこの五輪塔は供養塔なのでしょうし、輝宗の墓は輝宗が招いた政宗の学問の師である虎哉宗乙が住持だった出羽資福寺にあります。
おそらくは政宗が父の菩提を、信頼する虎哉宗乙に託したのでしょう。

分かりづらいかもしれませんが、伊達氏の家紋の一つである「笹に雀」が刻まれています。
この家紋は元は上杉氏のもので、先の実元が上杉氏と養子縁組をした際に贈られたものとのこと、破談となっても使っているのですからちゃっかりしています。
雀の形態や周りを囲む竹や笹の違いにより、実元流の亘理伊達氏から仙台笹と呼ばれる伊達本宗家、政宗の庶長子である秀宗の宇和島笹などに派生をしました。

二日目は夜明けとともに動き出し、当たり前ですがこの時間からレンタサイクルを借りられるわけもなく、よって徒歩での徘徊です。
概ね2キロ内外をてくてくと、前日にどうしても慈徳寺を回っておきたかったのはこれが理由でした。
まず最初は福島稲荷神社ですが、しかし目的は世良修蔵の墓です。
幕末の人物である修蔵は興味の範囲外ではあるのですが、しかし新政府軍と奥羽列藩同盟との間で戦いが始まるきっかけとなったのが仙台藩士による修蔵の暗殺ですので見逃すわけにはいかず、新政府による慰霊碑、官修墳墓ではあるのですが眠い目をこすりながらも探し回りました。
しかしこれがなかなかに見当たらず、諦めて他に向かう途中で発見は単なる偶然で、神社の敷地内ではなく外側の一角にありますのでぐるっと回れば見つかります。

宝積寺には伊達氏15代、晴宗の墓があります。
晴宗の正室である久保姫が建立をしましたので、おそらくは菩提寺なのでしょう。
岩城重隆の長女である久保姫は奥州一の美少女と名高く、結城氏に嫁ぐ行列を晴宗が軍勢を持って襲って強奪をしたとも伝えられています。
そのため伊達氏と岩城氏とは対立をしますが後に和睦をし、跡継ぎのいない重隆に晴宗と久保姫との子を養子に迎えることを約定、よって長男の親隆が岩城氏の跡を継ぎました。
この親隆は輝宗の同腹の兄であり、あるいは実家を継げなかった親隆は弟のことを面白く思っていなかったかもしれません。

天文の乱で父の稙宗を隠居に追い込んだ晴宗は、しかし結局はその父と同じく婚姻政策による勢力拡大を図ります。
長男の重隆の岩城氏も結果的にはその一環となり、三男の政景を留守氏に、四男の昭光を石川氏に、五男の盛重を国分氏に送り込み、また娘を蘆名盛興、二階堂盛義の正室とし、盛義に至っては母と妻が晴宗の娘、つまりは姉妹ですからいくら何でも血が濃すぎでしょう。
これらの婚姻政策も結果的に上手くいったとも言い難く、政宗の代になってから石川昭光、国分盛重は一時期に離反をしましたし、蘆名氏や二階堂氏は滅ぼされした。
この何重もの血の繋がりが相手にとどめを刺すことを躊躇させている、と判断をしての政宗の方針によるところが大なのでしょうが、やはり稙宗と晴宗は似た者親子だったのでしょう。

ここまでの関係は上記のとおりで、赤字が当主、下線が写真でご紹介をしているものとなります。
蘆名氏や相馬氏、二階堂氏や岩城氏らとの姻戚も書きたかったのですが、さすがに複雑になりすぎて割愛をさせていただきました。
こう見てみるとやはり晴宗と実元の関係が異様で、血が濃すぎるといろいろと問題が出る可能性が高くなるとも言われていますから、よくぞ成実といったところでしょう。

長楽寺は本庄氏の菩提寺です。
上杉謙信、景勝の重臣として名高い繁長が福島城の城代となったときに、本願地である越後本庄からこの地に移ってきました。
繁長、および本庄一族の墓があります。

本堂の左手にある八幡神社に繁長の木像が安置をされており、これを以って繁長の墓とされています。
あるいはその下に埋葬をされているのかもしれませんが、そもそも説明板などもありませんので詳しいことは分かりません。
扉は閉ざされていますが見てください、と言わんばかりに一角が空いており、遠目ですが見ることができます。
ただフラッシュはまずいだろうと炊かなかったため、写真ではよく分からないのが残念です。

その裏手には、本庄氏の墓所があります。
ネットなどでいろいろと調べたところ分かっているのは繁長の次男である充長、六男の重長、重長の次男の政長だけのようです。
上杉謙信に忠実だった本庄実乃の系統とは違い、繁長はある時期に武田氏と通じて謀反を起こしました。
武運つたなく嫡男の顕長を人質に出すことで降伏をしますが、その顕長も謙信没後の御館の乱で景勝についた父に対して景虎に与して敗北し、廃嫡をされてしまいました。

そのため大宝寺氏の跡を継いでいた義勝が、本庄氏に復して充長となりました。
充長に嗣子が無いままに没したことで弟の重長が後継となりましたが、30歳以上も離れた兄弟ですので充長からすれば子どもみたいなものだったのでしょう。
重長の跡は政長が継ぎ、米沢藩の重臣として続いていきますが途中で養子を迎えていますので、男系としての繁長の血は絶えている可能性が高そうです。
写真は左から充長、重長、政長ですが、実際の位置関係は左から政長、重長、充長となります。

繁長が城代を務めた福島城は、今は福島県庁となっています。
土塁や碑があるとのことでしたが、自転車であればまだしも徒歩でしたので、あてどもなく探すのは困難と諦めました。
またたまたま見つけた旧米沢藩米蔵は2010年の復原事業によるものとのことですが時間が早かったこともあり敷地内に入れず、横目に通り過ぎた次第です。

それに近しい空振りは、宝林寺に常光寺です。
宝林寺には二本松義継の墓があるかも、との未確認情報に踊らされてみましたが、それらしきものは見当たらず、さすがに時間が早すぎてお寺の方に聞くこともできませんでした。
また常光寺は江戸後期に福島藩主だった板倉氏の菩提寺ですが、墓所ではなく位牌が安置をされているとの説明板でしたので、時間も差し迫ってきたので軽くスルーです。
次なる地である白石に向けて、いそいそと出発をしました。
写真は左が宝林寺、右が常光寺です。


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