電脳筆写『 心超臨界 』

憎しみを鎮めるのは憎しみではない
愛のみによって鎮まるのだ
それが永遠のルールである
( お釈迦さま )

不都合な真実 《 敗戦革命へのレールを敷く――林千勝 》

2024-05-17 | 05-真相・背景・経緯
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第2次近衛内閣の成立直後の昭和15年(1940年)8月からの朝飯会の顔ぶれは、富田健治書記官長、牛場、岸、幹事役で革新商工官僚の帆足計を始め、内閣嘱託の西園寺、尾崎、松本、笠新太郎、犬養健、和田耕作などでした。朝飯会は近衛内閣総辞職前まで続きます。朝飯会の実態は内閣書記官長と尾崎を中核とした近衛のブレーン・トラストです。尾崎たちは近衛内閣の支那事変拡大や南進政策遂行に大きな影響を与えます。


◆敗戦革命へのレールを敷く

『日米戦争を策謀したのは誰だ!』
( 林千勝、ワック (2019/2/20)、p212 )

昭和12年5月30日、林内閣総辞職の前日、風見章と尾崎秀実、そして『朝日新聞』の関口泰、林広吉、須田禎一たちは、風見の地元に近い茨城県筑波山に登ります。尾崎はサングラスにトレンチコートと大物スパイ風(?)の姿で自信に満ち、常に風見の隣につきます。関口泰は昭和研究会の発起人会のメンバーです。夕刻、一行は土浦に出て山本五十六ゆかりの料亭「霞月楼」で夕食をとります。「霞月楼」の主人夫妻は、新潟県出身で関東に身よりがない航空隊副長時代の山本の養父母として知られています。海軍航空隊では「霞月楼」に「KG」という暗号が付いていました。永野修身海軍大臣によって海軍航空本部長から海軍次官に抜擢された山本は、当時、永野の後任の米内光政(よないみつまさ)海軍大臣の下で次官を留任していました。「霞月楼」の名は霞ケ浦に映る月からの命名です。

けれども風見と尾崎たち一行は、近衛の父篤麿が号して「霞山」だったので、「霞の月」を「近衛の月」とみたて、近衛内閣誕生寸前のこの時期に「革命は近い!」と気勢をあげて痛飲したことでしょう。風見と尾崎と『朝日新聞』一行は、近衛内閣誕生にむけた決起大会兼秘密会議を山本ゆかりの料亭で行なったのです。

戦前、日本でも共産主義思想が蔓延していました。ソビエトや中国共産党の直接的な手先でなくとも、自律的なシンパが学会・マスコミ・官界などに多数いました。恐慌などの資本主義の蹉跌(さてつ)を背景に、大正・昭和期、多くの日本人、特にインテリ・指導者層が社会主義を理想化しました。近衛も若い頃には社会主義に理想をみた時期もあり、反英米を主張しました。風見や尾崎は完全な共産主義者です。近衛が政権中枢に入れた共産主義者たちが、支那事変とそれに続く対米英戦でめざしたのは、レーニンの「革命的祖国敗北主義」つまり「帝国主義戦争を内乱(革命)に転化せよ」というスローガンに基づいて敗戦革命へのレールを敷くことでした。日本とアメリカの対立を徹底的に煽り両者が戦うことを目指したのです。

そうすることでアジアに共産主義国家を作ろう、というのがレーニンやスターリンの世界戦略でした。近衛は風見らの背景を熟知していました。近衛は共産主義者たちが企図する敗戦革命(日本革命)への道を近衛文麿の覇権獲得計画に織り込み、利用するのです。

近衛が、この時までに陸軍の皇道派に近づき2・26事件に関する恩赦などを持ち出したのは、彼らを恐れるがゆえ彼らの歓心を買いたかったのと同時に、自らは共産主義ではないというポーズ、アリバイづくりのための一石二鳥の周到な布石でした。

その証拠に、近衛は、皇道派の旗印となっていた「天皇機関説に対する攻撃」や国体明徴運動には余り興味を示しません。2・26事件に関する恩赦には、有能な臣下を殺した若手将校たちや皇道派を嫌う天皇へのあてつけがあったとも解されます。なお、近衛はのちに共産主義者と陸軍統制派に戦争責任を押しつけ「自分は騙されただけだ」と語るために、皇道派が抱いた歴史観、いわゆる「皇道派史観」を利用します。

ところで、第一次近衛内閣成立後、総理大臣秘書官であった牛場友彦や岸道三が、政治経済に明るい者たちを食事に招き、「朝飯会」始めます。会場は牛場秘書官邸などです。尾崎秀実が人選のかなりを担い、学者、評論家、『朝日新聞』関係者などを集めました。内閣書記官長の風見章を始め、内閣嘱託の尾崎、『朝日新聞』の佐々弘雄と笠新太郎、政治学者の蝋山政道、最後の元老西園寺公望の孫の西園寺公一、同盟通信社の松方三郎、思想家の平貞蔵などがメンバーで、多くは昭和研究会の中心的存在でもありました。牛場と幼なじみであった関係を使って近衛に接近した白洲次郎もいました。昭和15年(1940年)始め頃から、牛場、尾崎、蝋山、西園寺たちの共通の知りあいであった同盟通信社編集長で松方の上司の松本重治や故犬養毅首相の長男で衆議院議員の犬養健も参加します。

第2次近衛内閣の成立直後の昭和15年(1940年)8月からの朝飯会の顔ぶれは、富田健治書記官長、牛場、岸、幹事役で革新商工官僚の帆足計を始め、内閣嘱託の西園寺、尾崎、松本、笠新太郎、犬養健、和田耕作などでした。朝飯会は近衛内閣総辞職前まで続きます。朝飯会の実態は内閣書記官長と尾崎を中核とした近衛のブレーン・トラストです。尾崎たちは近衛内閣の支那事変拡大や南進政策遂行に大きな影響を与えます。
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