電脳筆写『 心超臨界 』

ものごとの意味するところはそれ自体にあるのではなく
そのことに対する自分の心構えにあるのだ
( サンテグジュペリ )

◆奉天会戦の機関銃の使用が騎兵隊を葬り去った

2024-11-11 | 05-真相・背景・経緯
§1-2 日露戦争がなければ白人優位の世界史の流れは変わっていなかった
◆奉天会戦の機関銃の使用が騎兵隊を葬り去った


日本騎兵の創設者、秋山好古が考えたのは、いわば逆転の発想であった。騎馬での戦いでは、日本人がコサックに勝てるわけがない。だから、コサック兵が現われたらただちに馬から降りて、銃で馬ごと薙(な)ぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。これは騎兵の存在理由を根本から覆す発想である。「日本騎兵の生みの親」と言われる秋山将軍のようなエキスパートが、まるで自己否定のようなアイデアを思いつくというのは、普通はできないことである。一種の天才であったと言わざるをえない。


◇奉天会戦

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p208 )

1905(明治38年)
奉天会戦
世界最強のコサック騎兵を封じ込めた秋山好古(よしふる)の画期的な戦術

海軍はともかく、陸軍のほうはロシアに対して万に一つも勝ち目がないと世界中から思われていた。世界最強と目されるロシアのコサック騎兵に比べ、日本の騎兵はまことに見劣りがした。何しろ徳川3百年の間、騎兵を用いる必要がなかったから、騎兵の運用は明治になって西洋から大急ぎで学んだばかりだし、馬もあわててオーストラリアから輸入して育成したものだった。日露戦争当時の世界中の人々が日本の勝利に耳を疑ったのも無理のない話であった。

そんな状況下にあって日本騎兵の創設者、秋山好古が考えたのは、いわば逆転の発想であった。騎馬での戦いでは、日本人がコサックに勝てるわけがない。だから、コサック兵が現われたらただちに馬から降りて、銃で馬ごと薙(な)ぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。

これは騎兵の存在理由を根本から覆す発想である。「日本騎兵の生みの親」と言われる秋山将軍のようなエキスパートが、まるで自己否定のようなアイデアを思いつくというのは、普通はできないことである。一種の天才であったと言わざるをえない。

さらに秋山将軍は、当時ヨーロッパで発明されたばかりで、「悪魔的兵器」と言われながらもその威力が戦場では未知数であった「機関銃」を採用した。黒溝台(こくこうだい)における会戦で、日本騎兵の機関銃の前にコサック騎兵は次々と倒され、なす術もなかった。機関銃を中心とした秋山の騎兵集団(歩兵や砲兵を加えたので、秋山支隊と言われた)は、じつに無敗の軍隊であった。その結果、最終決戦となった明治38年3月の奉天会戦の戦場では、とうとうコサックは前線に現われなかった。機関銃は世界最強のコサックを封じ込めてしまったのである。

もしも秋山将軍の「コロンブスの卵」的な発想による作戦が行われていなければ、神出鬼没のコサック騎兵は日本軍の戦線を思うままに断ち切り、日本軍は総崩れとなっていたであろう。もちろん秋山は騎兵本来の機動力をも忘れず、少人数の挺身隊を作り、ロシアの後方を撹乱して奉天大会戦の勝利に貢献している。

この奉天会戦で秋山の部隊は敵の猛攻を受けながらも敵陣深く進むことに成功し、ついにはロシア軍の中心部近くにまで達した。わずか3千の兵力にすぎない秋山の部隊が出現したことを聞いて、敵将クロパトキンは震えあがり、ついにロシア軍に総退却を指令した。日本軍はこの機を逃さず追撃を開始し、2万人のロシア兵を捕虜にした。言ってみれば、秋山の部隊が奉天会戦の勝敗を決定したようなものであった。

世界中の人々にとって、日本軍の勝利はまるで奇跡を見ているかのようであったと思われる。戦争が終わり、真実が分かったとき、それまで世界中で「陸軍の華(はな)」と呼ばれた騎兵は、世界の陸軍から急速に消滅することになった。どんなに機動力があっても、機関銃の連射の前には何の力もないことが誰の目にも明らかになったからである。そこで、機関銃に負けない機動力を持つものとして、十年後の第一次大戦で、欧州の戦場に戦車が登場してくることになった。アメリカ軍などでは現在でも「騎兵部隊」という名称こそ残しているが、その実態はヘリコプター部隊である。世界で最も歴史の浅い、したがって最も弱いと思われていた日本騎兵が騎兵の時代を終わらせ、世界の陸軍を変えてしまったのだ。

世界最大の陸軍国ロシアを相手に日本が勝利できた原因として、総司令官大山巌、総参謀長児玉源太郎をはじめ、当時の日本軍の指揮官たちがみな維新の戦いや西南戦争の経験者ぞろいであり、実際の戦争を体で知っていた人材であったことも大きかった。

たとえば、第一軍を率いた黒木為楨(くろきためもと)将軍は奉天会戦に先立つ遼陽(りょうよう)会戦において、軍事史上類を見ない1個師団2万人による夜襲を実行した。わずか1連隊の兵をロシアの防衛戦となっている太子河(たいしが)の川岸に薄く並べ、あたかも黒木軍がそこにいるように見せかけて、その間に渡河して奇襲するという、まさに常識破りの作戦であった。

黒木軍に随行していたドイツの観戦武官ホフマンが「この作戦は危険すぎるのではないか」と質問した。これに対して、黒木は「私の勘では、この作戦はうまくいく。まぁみていなさい」と答えたという。

この史上空前の奇襲作戦は、みごとに成功した。ホフマン自身が著書に記したところによれば、ホフマンは黒木将軍の手を取り、「将軍、私はこれほど尊い教訓を受けたことがありません」と感謝したという。戦場で鍛えられた黒木の“勘”は、正しかったのである。

日露戦争における陸軍の司令官たちはみな実戦で学び、鍛えられた人たちばかりであった。大東亜戦争において、教科書どおりの戦法を繰り返して何ら学ぶところのなかった士官学校のエリート軍人たちが多かったのとは、大いに違うと言わざるをえない。
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