ラジオ深夜便をつけると第七版第八版三省堂国語辞典編纂者飯間浩明先生が熱く語られていた。サンコク初代編纂者見坊先生のお話から始まってサンコク改訂編纂のための言葉収集(言葉ハンティング)のお話まで興味深いお話の羅列に耳を奪われた。いまのサンコクからは「スッチー」「テレカ」「ペレストロイカ」などの掲載項目が除外削除されているらしい。ウザいはもともと多摩の方言、離合はもともと福岡の方言というのも、じつに興味深くて面白い。番組が終わって、歌誌『塔』2023年2月号の風炎集のtoron*さんの一連「冬の蛇」を読んだ。哀しさと優しさとを湛えた画風の画家のようなtoron*さんの一連はすごく佳くて、とりわけこちらの一首など。
身籠りしひとの座っているような丸みを持たせて&と書きぬ/toron*
オーボエのメロディ。
今宵、繁忙は嬉しく有り難いことなれどあまりの繁忙にぐったり疲れ果てて仕事から戻って来て、ノートを開く気力も湧かず、先日のヤクブ・フルシャ指揮NHK交響楽団演奏会のバーンスタインのシンフォニック・ダンス(1961年作曲)とラフマニノフのシンフォニック・ダンス(1941年作曲)というプログラムのラジオ中継を予約録音したものを繰り返し聴いている。この2曲、作曲年が二十年違いと考えるとあらためてじわじわと面白さが湧き上がってくる。そして、本当に素晴らしい佳い演奏にこころが楽しくなる。明日も仕事。
いつか小説に書くときのための整理メモ。
後見役として預かっていた青山家伝来の武器銃器を十四歳になったばかりの甥の青山吉隆(早世した青山豊後守長正長男正次の息子)へ引き渡す際、返却を渋った長正次男俊次は、吉隆のお世話役の青山家家老早崎と諍いになり、早崎を御手打ちにするという刃傷沙汰を家内で起こし、それに激怒した吉隆は公に俊次の所業を訴え出て、俊次は能登富木へ流刑に処せられ、俊次の家も絶家処分となる。
長正三男長鏡は外祖父山崎長徳の養子となって山崎庄兵衛長鏡として生きていくことになる。そして、庄兵衛長鏡の二男が大聖寺藩士山崎権丞家の初代権丞となり 、その孫が三代目の権丞清記。清記三男が五代目の権丞無一で、加賀藩士山崎庄兵衛範古は無一の庶子。松濤権之丞泰明は範古の庶子で、松濤権之丞から見れば青山豊後守長正は七世の祖、山崎長徳は八世の祖。
以下は日置謙『加能郷土辞彙』(金沢文化協会、1942年1月)の記述に適宜補足したメモ。
加賀藩士青山俊次(あをやまとしつぐ)
通称伊豆。父青山豊後長正と母山崎長徳娘との次子。元和元年五月二十日齢四十三を以て父長正が歿したため、長正の遺知のうち、兄豊後正次が一萬三千五百石を、俊次が二千石を受けたが、兄豊後正次二十二歳にして歿したため、その嫡子将監吉隆は幼なるを以て正次遺知のうちの三千石を与へられ 、俊次に又二千石を分かって後見を一括した。然るに吉隆の十四歳に及び、俊次が本家の武具重器を吉隆へ引き渡す際、俊次は返却を渋り、吉隆の家老早崎庄左術門と諍ひになりて俊次は早崎を手討にしたので、吉隆が公に俊次の所業を訴へ出て、俊次は能登富木へ流刑に処せられ、寛永十九年八月十七日能登富木で歿し、家断絶した。
加賀藩士青山吉隆(あをやまよしたか)
通称鶴千代・與三・豊後・将監。父は豊後正次。元和七年八月十日正次二十二歳にして歿したため、吉隆四歳にして家を継ぎ、禄三千石を受け、十四歳にして三千石を加へ、前後増禄九千六百石に至った。性勇壮を以て神尾直次・前田恒知・寺西秀賢と共に四天王と称へられ、寛永十六年前田利常隠居の際に小松城に従ひ、正保の初め前田綱紀の傅(ふ)となり、萬治二年齢四十を以て歿。
そういえば、昨日は昭和14年3月17日に脊椎カリエスで42歳で亡くなった母方曽祖父の命日だった。
寝床で瞑目していると、不意に胸奥でピアノとオーケストラがこの上ない優しさに満ちたAndante楽章を奏でたので、起き出して取り敢えずメモしてみた。妙に目と頭が冴えてしまったため、来たばかりの歌誌『塔』3月号を手に取ってパラパラ読み始めた。
土井恵子さんの一連5首は128ページ上段。作中主体のよき相棒でいらっしゃるご夫君との日常をほのぼのとした明るさあるユーモアを通底させた独特の掬われ方で作品化されているところが初期の土井さん作品の圧倒的魅力と思うも、最近拝見する土井さん作品には作中主体の寂しい心の影が見え隠れしているようで、ご夫君も登場されず、一読者の勝手な深読みながら、何となく心配になってしまう。3月号の作品から。
大鍋に仕込んだおでん三日目の夕餉にのぼりまだ鍋にある/土井恵子
50ページの澄田広枝さんの一連5首に漂う独特の妖しさ。たとえば。
沼としてあなたを沈めるゆふさりの粘性をもつ沼になりたい/澄田広枝
51ページの千名民時さんの一連5首に横溢する心優しさ。その一首。
ひとときを我が童心とたはむれて窓いでゆける秋のゆふやけ/千名民時
塔の表紙。
ぐったり疲れ果てて仕事から帰って来ると、ポストに歌誌『塔』3月号が来ていた。2001年5月号ぶりに、私の名前も作品も痕跡ひとつ残さずきれいさっぱり消えている号である。この一冊の中のどこにも私は存在していない。気配すらない。その3月号に、師匠岡部さんが4月号から新選者に就任されるという囲み記事を見つけて、おおお、と思った。それから、習性に従って、いつものように土井恵子さんの作品を探し始めた。