「加賀江沼人物事典」
加賀江沼人物事典編集委員会:編纂
出版社:江沼地方史研究会 (1989/01刊)
p267の「山崎権丞(8代)」記事に対してブログ筆者(私)が適宜修正補足したものが以下。
山崎権丞(やまざきごんのじょう)(8代)
江戸時代末期の人物。生没年不詳。
墓所は、法華宗鳳榮山本光寺の境内墓地(石川県加賀市大聖寺亜神明町4)にある。
活動時期は天保14年(1843年)~明治3年(1870年)。
大聖寺藩家老。その先祖は加賀前田藩初代利家、二代利長に仕えた山崎長門入道閑斎(長徳)である。すなわち、魚津城を預かる青山豊後守長正の許に嫁いだ山崎長徳の娘は三人男児(長男正次、次男俊次、三男宗長)を産み、長男正次は父長正後嗣となるも幼い息子吉隆を残して早世、次男俊次が分家として青山本家の後嗣吉隆後見になるも吉隆十四の年に俊次から青山本家への武器銃器引き渡しの際に吉隆家老を手打ちにする事態が起き、俊次は流罪、俊次の立てた分家は絶家となった。そこで、この俊次の次男庄兵衛、つまり山崎長徳にとっては外曽孫にあたる男児が山崎家養子となって初代山崎庄兵衛長鏡となり、長鏡の長男は二代目山崎庄兵衛(但し病死により絶家)、次男は大聖寺藩士山崎権丞家初代となった。以後子孫は代々権丞を称し、禄高1000石の家老として大聖寺藩政を支えた。そしてここに挙げた8代は大聖寺藩政最後の権丞である。3代目権丞清記三男である5代目権丞無一の次男6代目権丞了夢(加賀藩士山崎庄兵衛家を継いだ山崎庄兵衛範古の腹違いの兄に当たる。)の息子7代目権丞七郎左衛門の息子である。つまり、清記の玄孫である。天保14年御用所見習として出仕、弘化4年人持組、家老役、嘉永7年家督相続、元治元年の水戸浪士上京阻止に出陣。明治2年6月公議人として集議院に出頭、明治3年には大属士族掛となるも、明治3年8月それらの職を辞した。
【参考情報】
鳳栄山本光寺
http://www.asahi-net.or.jp/~jn5s-arkw/trip/hokuriku/daishoji/honkoji.htm
学会誌『金大考古64: 4-8』2009-06-30
「大聖寺城下町の寺町 : 山の下寺社群」(Author:金沢大学・田嶋正和氏)
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/23954/1/AN10180493-64-4-8.pdf
前田家家臣・青山家のこと
http://shungansho.fc2web.com/yume-no-atosaki/yume-hokuriku01.htm
【参考文献】
『大聖寺藩史』『加賀市史料4』『加能郷土辞彙』
仕事いちにち休みの昨日は、皇居お濠の脇を通って国会図書館へ出掛け、〈加賀藩史稿〉の青山吉次家由緒と山崎長徳家由緒の記述を閲覧。皇居のお濠には悠々と泳ぐ鴨たちの姿が見えて、不意にぱらんと〈警部秋原康三と鴨の暗号〉というタイトルが思い浮かんだ。