カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

藤家さんのことばから。

2016-02-25 23:13:09 | Weblog
 読みながら、思わず書き留めたくなった言葉です。

 藤家渓子さんのエッセイ《雪舟と拙宗》(随想集『小鳥の歌のように、捉えがたいヴォカリーズ』(東京書籍)所収)より。

 メモ。

 (前略)

 過去の偉大な作曲家たちの作品を見ていくとき、死の直前の時期に書かれた曲が、特別な光彩を放っているという印象を強く受ける。自らの死期を悟っているような場合は「さもありなん」と思うが、(実際のところはわからないが)状況から推測して死を予感してはいなかっただろうと思われるケースでも、まぎれもなく当人の曲だという特質を備えつつ、どこかそれまでとは非常に違った感じのえもいわれぬ素晴らしい曲を残して逝くことが多い。そんな場合、理性的に考えればもうすぐ自分が死ぬような理由は見当たらないとして深く思いを至らせなかったとしても、本人はどこかで死を予感しているものなのだろうか。顕在意識では知らなくても、無意識の領域ではわかっていて、それが作品に影響を与えるのかもしれない。

 人間は誕生の瞬間から死へ向かって一歩一歩行進しているというような、そんな直線的軌道を思い描くのは間違いで、本当は何度も死に近づいたり遠ざかったりということを繰り返す、もっと複雑な軌道を描いて生きていくのではないか。そしてそれにも何らかの周期があるのではないか。

 時々、自分の命が「薄く」なっているような感じを持つことがある。1~2日なのか、もう少し長いのか、徐々に元に戻っていくようなので判然とはしないが、それは、体調が悪いという感じではなく、「生命力が希薄になっている」という表現から連想される、ネガティブなイメージばかりでもない。霊界により近い感じ、とでもいおうか。もとより人間は霊的な存在であるというから、このいい表し方は妥当でないかもしれず、いっそ単に夢見心地といったほうがよいだろうか。ともかくそんな時は、下手するとちょっとしたことから、事故などに遭って命を失うような気がして、なるべくおとなしくしていようと、漠然とではあるが心がけている。その一方で創作にはとてもよい時期で、自分のものとも思われないような発想が浮かんだりする。

 (後略)
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