メモ。
菅原明朗さんのこと。
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写真(神戸新聞):菅原明朗さんの直筆原稿など遺品の寄贈を申し出た北島明美さん=京都市北区
《作曲家・菅原明朗さん 遺品、明石に里帰り》
(2005/04/16神戸新聞記事)
慶応大のカレッジソング「丘の上」などで知られ、日本近代音楽に大きな足跡を残した明石市生まれの作曲家、菅原明朗さん(1897―1988年)の遺族が、直筆楽譜などの資料の寄贈を同市に申し出ていることが16日、分かった。遺族は「資料の散逸を防ぐため、父の生誕地の明石にまとめたい」との意向で、常設展示を希望。同市も前向きに検討している。(坂本 勝)
寄贈を申し出ているのは、菅原さんの長女で著作権を引き継いでいる北島明美(はるみ)さん(85)=京都市北区。
菅原さんは同市大蔵町生まれ。明石第二尋常小学校(現・市立人丸小学校)で学び、十三歳まで明石で育った。
京都の旧制中学を卒業後、上京。「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」や日本放送交響楽団などの指揮者として活躍し、日本のトーキー映画第一作「藤十郎の恋」の音楽も手がけた。ドイツ楽派が主流だった時代に、初めてフランス楽派を紹介。作家永井荷風とも交遊し、オペラ「葛飾情話」を作曲した。
ふるさとのためにつくった交響詩「明石海峡」など、九十一歳で亡くなるまで二百五十曲以上を作曲、旺盛な創作活動を続けた。「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」を作曲した古関裕而さんを育てたことでも知られる。
遺品を管理してきた北島さんは「保管してもらえるならボランティアで整理に通ってもよい」という。北口寛人・明石市長は「前向きに検討したい」と話している。
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0416ke88970.html
☆
《高橋如安氏による“オペラ『葛飾情話』蘇演のこと”》
http://npo-abbamusica.eccl.jp/30sugawara.html
【菅原明朗(すがはらめいろう)先生略歴】
明治30(1897)年、古代貴族、菅原道真の末裔として兵庫県明石に生まれる。京都二中時代にホルンとソルフェージュ、上京して藤島武二に洋画、瀬戸口藤吉に作曲(対位法)をそれぞれ学ぶ。
「音楽と文学」の同人、オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ楽団、新交響楽団等の指揮者となり、啓蒙期の楽界にあって、フランス印象派を中心とする近代・現代音楽の紹介に努める。
18歳より作品を発表し、生涯作品を生み続けた。その総数およそ350曲。管弦楽作家として「内燃機関」(32歳)をはじめ、「明石海峡」(42歳)「交響楽ホ調」(55歳)「交響的幻影 イタリア」(74歳)等40数曲を作曲。
室内楽の作品は、ピアノ曲「白鳳の歌」(33歳)をはじめ、ヴァイオリン・ハーモニカ・アコージョン等あらゆる分野にわたり、弦楽四重奏「神曲」(81歳)におよび40数曲を作曲。 マンドリン・ギター等の撥弦楽器を愛好し、初期の「ギター四重奏」(26歳)から、死の前年(91歳)「ディヴェルティメント」「ソナタ」のギター独奏曲まで、独奏・合奏・編曲70数曲に及ぶ。吹奏楽にも力を入れ「海の行進曲」(33歳)をはじめ10曲余がある。
劇音楽は永井荷風(右写真)との親交から生まれた、オペラ「葛飾情話」(41歳)、わが国トーキーの第一作「藤十郎の恋」(41歳)、人形劇「蛙になった王子様」(84歳)等20曲余に記念的作品が多い。
声楽作品は「ある女」(34歳)から「冬の窓」(永井荷風作詞)(46歳)等約三十曲。世俗的なものでは慶応義塾「丘の上」が愛唱されている。
典礼楽・宗教楽についてはルネッサンスやバロック形式と共にカトリックのローマ典礼固有の聖歌であるグレゴリオ聖歌の影響が非常に大である、というよりも、そのものと言ってよいであろう。
これは11歳でプロテスタントの洗礼を受け、後年、カトリックに帰正(霊名フランチェスコ・ジョヴァンニ)した宗教的生涯から、この分野に最も力をそそいだことからくる。特に晩年は聖譚楽「預言書」(60歳)、「日本の殉教者のためのレクィエム」(ヨハネ・パウロ2世教皇様に献呈された)(83歳)、日本語のミサ曲「聖体祭儀」(89歳)と集中し、ついに絶筆となったカンタータ「ヨハネの黙示録」に及ぶ。その数30余曲で大曲が多い。
先生は作曲の傍ら帝国音楽学校教授(33歳)となり、また野に在っても多くの後進の指導にあたり、「管弦楽法」「楽器図説」「和声法要義」等の名著を著す。
洋楽を中核としながらも、初期より雅楽・声明等日本の古典を研究し、中期には宮城道雄・久本玄智等の邦楽と共作し、戦後はイタリア現代作曲家ピッツェッティとの親交、また数度にわたる渡伊を通し、イタリア古典への傾倒、グレゴリオ聖歌の研究等から日本と西洋の音を通して融合を目指し、それは高い独自の旋法性の音楽として多数の作品に結実する菅原明朗先生自身の確信の道を歩み続けた。1988年4月2日午後7時(92歳)カンタータ「ヨハネの黙示録」作曲中、終曲の最中に帰天する。
【菅原明朗先生の歴史的意義】
日本の作曲家の草分け山田耕筰の11年後に生まれた同時代の作曲家。山田がドイツ・ロマン主義の影響を受けたの対し、菅原先生は自身の作曲を続けながらフランス近代音楽を指揮し続け、また、深井史郎、服部正、古関裕而、小倉朗、須賀田礒太郎、伊藤昇等多くの弟子を育てた。
はじめ先生はフランスのドビュッシーやラヴェルらの音楽に日本音階との近似点を見出したが、次第にこれらの技巧的で感覚的な音楽から離れ、グレゴリア聖歌などの高貴で典雅な作風に傾斜した。
それまで歌曲の分野を中心としていた日本の作曲を器楽曲、オーケストラにまで広げた先生の功績は日本音楽史上の金字塔の一つである。
尚、先生の一部の作品に関しては国立(くにたち)音楽大学図書館にスコアが保管されている。
【葛飾情話について】
友人であった永井荷風の台本に菅原先生が作曲して昭和13(1938)年に初演された比較的短い作品で、日本の創作オペラ史のごく初期に位置する、ユニークな作品である。しかし、この作品のオリジナルな総譜は断片的なものしか現存しない。
これは総譜が戦災によって焼失したためと考えられていたが、半世紀以上を経た平成10年に全曲のピアノスコアが先生の遺品整理中に偶然に発見され、それをもとに菅原明朗門下最後の弟子、高橋如安の手でオーケストレーションが行なわれ、平成 11年に蘇演された。
(後略)
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『ガンジーの会』のサイト
http://ganjisan.exblog.jp/m2005-04-01/
《葛飾情話、上演によせて~永井荷風とオペラ『葛飾情話』~》 by末延芳晴氏
1903年9月、「アメリカに渡って実業でも身につけて来い」という父親の思惑を受け入れ、西海岸部のシアトルに渡った永井荷風は、そこで、オペラという劇音楽芸術に関心を抱き、オペラ関係の書籍をニューヨークから取り寄せ、オペラの何たるかを勉強し、オペラ作家になりたいという夢を持つようになる。しかし、アメリカ西海岸北部の港町シアトルは、まだ西部開拓時代の雰囲気が色濃く残る町で、本格的オペラの鑑賞は望むべくもなかった。荷風が、本格的にオペラに出会っていくのは、2年後、ニューヨークに移り、ウォール街にあった横浜正金銀行の現地職員として働き始めてからのことであった。荷風は、夕方、銀行の職務を終えると、直ちに、メトロポリタン歌劇場に足を運び、ワーグナーやプッチーニ、ヴェルディなどのオペラを、英語の対訳を参照しながら鑑賞、オペラの何たるかに目を開いていく。おりしも、メトロポリタン歌劇場は、世紀のテノールカルーソーやメルバ、エンマ・イームズ、リリアン・ノルディカ、ジェラルディン・ファーラなど、世界的な歌手が夜毎喉を競い合い、第一期の黄金期を迎えていた。荷風は、正に、グランド・オペラの全盛期に、望みうる最高の歌手の歌で、オペラを鑑賞し、その真髄に目を開いていったのである。
その荷風が最初に全身が震えるほど感動したオペラは、1906年1月5日に聞いたワーグナーの『トリスタントイゾルデ』で、そのときの感動を、荷風は日記に「余は深き感動に打たれ(中略)無限の幸福と希望に包まれて寓居に帰りぬ」と記している。以来、荷風は、『タンホイザー』、『ローエングリン』、『ニーベルンゲンの指輪四部作』、『パルジファル』とワーグナーのオペラを集中的に聞いていく。しかし、『タンホイザー』を2度目に聞いた辺りから、ワーグナーの純潔な処女による宗教的救済という思想に違和感を抱き、ワーグナーの楽劇から離れていく(この間の事情については、『あめりか物語』に収められた「旧恨」という短編小説に詳しく記述されている)。そして、グノーヤベルリオーズなどフランス・オペラへと関心を移し、結果としてドビュッシーの音楽に出会っていくことになるのである。
1908年、リヨンとパリを含めて、わずか8ヶ月余の短いフランス滞在を打ち切り、日本に帰国した荷風は、小説家として立つと同時に、書くことを通してオペラの創造に関わりたいという夢も持っていたはずである。しかし、当時の日本の社会的、文化的状況がオペラの創造を許すはずもなく、荷風は小説家として立つことには成功するものの、オペラ作家として立つ道は断念(この間の事情は、『新帰朝者の日記』に、欧米留学から帰国したピアニストの口を通して辛らつに語られている)。大正時代に入って、浅草オペラが全盛期を迎えても、見向きもせず、あれほど詳細を極めた日記『断腸亭日乗』を読んでも、浅草オペラについての記述は一行も残していない。全盛期のメトロポリタン歌劇場で本場のオペラを聞き込んできただけに、荷風にとって、浅草で演じられるオペラはオペラとして見なしえなかったのかもしれない。
ところが、時代が昭和に入り、アメリカからジャズやダンスが流入し、いわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」の時代を向かえ、大衆的娯楽の主流がオペラから映画に移り変わり、浅草オペラが衰微を極めた頃になって、荷風は、遅ればせながら浅草オペラに出会っていく。隅田川の向こう側、玉の井の私娼「お雪」との交情を描いた傑作『 墨東綺譚』を書き終えた荷風は、浅草の新吉原の娼婦をモデルに小説を書こうと浅草に通っているうちに,六区の劇場外で唯一オペラ興行を続けていた浅草オペラに足を踏み入れ、そこで演じられていたオペラやアメリカ風レビューに意外に味わい深い人情味が残っていることを発見、連日のように入り浸るようになる。
こうして、浅草オペラが持つ可能性を見極めたうえで、これなら自分が考えているオペラが上演できるかもしれないという思いに駆られ、また、たまたまフランス音楽に造詣の深い新進作曲家菅原明朗と知り合ったことで、創作オペラ上演の話がとんとん拍子で進み、荷風は『葛飾情話』と題して、上演時間で1時間余りのミニ・オペラの台本を書き上げる。オペラは、昭和13年5月17日、大入り満員の盛況の中、初演され、一日三回、十日間連続公演でどれも立錐の余地もないほどの大入りで、記録的な成功を収める。この成功に気を良くして、荷風は、菅原明朗と組んで二作目のオペラ創作に意欲を燃やすが、既に時代は戦争色一色に塗りつぶされ、オペラ創作の試みが定着するはずもなく、不幸にも荷風の夢ははかなく烏有に帰す。それは、荷風個人の夢だけでなく、日本における創作オペラの唯一の可能性が消滅したことをも意味していたのである。
不幸は更に続く。空襲で、『葛飾情話』の楽譜が焼けてしまい、再演の手立てが全く失われてしまったことである。再演は不可能と、荷風のみならず、作曲者の菅原明朗までもが思い込み、一部荷風研究者の間で「幻のオペラ」として記憶される以外、『葛飾情話』は、半世紀以上も完全に忘れられた存在に甘んじてきたのである。ところが、1999年夏、菅原明朗の最後の弟子に当たる作曲家高橋如安氏の骨折りで、明朗の妻で、初演の時「よし子」を歌ったソプラノ歌手永井智子の遺品の中から、このオペラのピアノ用スコアが発見され、ようやく再演の道筋が開かれたのである。
6年前、荒川区民ホールで再演された時は、シアターのキャパシティが2000人近く、初演の時の浅草オペラより5倍も大きく、またオーケストラ・ピットがないため、ステージをオーケストラ用と舞台用と二つに分け、更にオーケストラもアマチュアの区民オケ・・・・と不利な条件での上演を強いられたため、初演時のステージの密度の濃さと聴衆と一体となった劇場の熱気の再現は望むべくもなかった。
今回の再演に当たっては、そうした反省を踏まえて、高橋如安氏が、初演時の小編成のオーケストラ向けに編曲しなおし、ルーマニア国立ブカレスト歌劇場から同歌劇場常任指揮者の井上宏一氏を招き、プロのオーケストラの演奏で再演されるという。初演時の密度の濃さと熱気の再現が期待されるゆえんである。
さらにまた、今回の再演の意義を考える上で、6年前の再演時と今とで、社会的、政治的状況が大きく変わってきていることを見落としてはならないだろう。具体的には、自衛隊のイラク派遣とリンクする形で、憲法改悪の動きが現実的に政治プロセスに乗せられ、荷風があれほど嫌悪した軍部(防衛庁と自衛隊)と軍利、物事を武力で解決しようとする殺伐とした時代が再び到来しようとしている。
そのような時代の流れにあって、荷風がなぜこのオペラの創作・上演にあれほどの情熱とエネルギーを注いだか、そして一日三回、一週間に及ぶ公演期間中、なぜあれほど大勢の聴衆が押し寄せ、喝采を送ったのか、その理由を考え直してみることは、日本における真にクリエーティヴな創作オペラの可能性を考える上でも、更にまた、戦争に再び向かおうとする時代の流れに対して、文学者、いや芸術家が表現を通してどう対峙し、市民を巻き込んだ形で「ノン」の声を挙げなければならないかを考える上でも、極めて意義深い試みだといえよう。そうした意味で、このオペラの再演がここ北区区民会だけで終わることなく、日本全国各地で上演されることを願わざるを得ない。(ガンジーの会・ホームページ・マイオピニオン200年4月13日より転載)
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永井荷風の昭和16年2月4日の『断腸亭日乗』より。
「立春 晴れてよき日なり。薄暮浅草に行き・・・楽屋に至るに朝鮮の踊り子一座ありて日本の流行歌を歌う。・・・朝鮮語を用いまた民謡を歌うことは厳禁せられていると答え・・・余はいいがたい悲痛の感にうたれざるを得ざりき。・・・余は日本人の海外発展に対して歓喜の情を催すこと能わず。むしろ嫌悪と恐怖とを感じてやまざるなり」
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『荷風から:下降と「人びと」の構成(1)
Thinking from Kafu NAGAI:Descending and Construction of the "People"』by 原田達 氏
http://www.andrew.ac.jp/sociology/teachers/harada/profile/sociology1/kafu.html
(永井荷風の反戦思想の本質について考察しながら、鶴見俊輔氏がなぜ荷風の思想に共鳴しているのかを分析している論考です。荷風の、反戦思想に見える思想が実は単純なものではない。。。という捉え方が興味深いと思います。)
菅原明朗さんのこと。
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写真(神戸新聞):菅原明朗さんの直筆原稿など遺品の寄贈を申し出た北島明美さん=京都市北区
《作曲家・菅原明朗さん 遺品、明石に里帰り》
(2005/04/16神戸新聞記事)
慶応大のカレッジソング「丘の上」などで知られ、日本近代音楽に大きな足跡を残した明石市生まれの作曲家、菅原明朗さん(1897―1988年)の遺族が、直筆楽譜などの資料の寄贈を同市に申し出ていることが16日、分かった。遺族は「資料の散逸を防ぐため、父の生誕地の明石にまとめたい」との意向で、常設展示を希望。同市も前向きに検討している。(坂本 勝)
寄贈を申し出ているのは、菅原さんの長女で著作権を引き継いでいる北島明美(はるみ)さん(85)=京都市北区。
菅原さんは同市大蔵町生まれ。明石第二尋常小学校(現・市立人丸小学校)で学び、十三歳まで明石で育った。
京都の旧制中学を卒業後、上京。「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」や日本放送交響楽団などの指揮者として活躍し、日本のトーキー映画第一作「藤十郎の恋」の音楽も手がけた。ドイツ楽派が主流だった時代に、初めてフランス楽派を紹介。作家永井荷風とも交遊し、オペラ「葛飾情話」を作曲した。
ふるさとのためにつくった交響詩「明石海峡」など、九十一歳で亡くなるまで二百五十曲以上を作曲、旺盛な創作活動を続けた。「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」を作曲した古関裕而さんを育てたことでも知られる。
遺品を管理してきた北島さんは「保管してもらえるならボランティアで整理に通ってもよい」という。北口寛人・明石市長は「前向きに検討したい」と話している。
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0416ke88970.html
☆
《高橋如安氏による“オペラ『葛飾情話』蘇演のこと”》
http://npo-abbamusica.eccl.jp/30sugawara.html
【菅原明朗(すがはらめいろう)先生略歴】
明治30(1897)年、古代貴族、菅原道真の末裔として兵庫県明石に生まれる。京都二中時代にホルンとソルフェージュ、上京して藤島武二に洋画、瀬戸口藤吉に作曲(対位法)をそれぞれ学ぶ。
「音楽と文学」の同人、オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ楽団、新交響楽団等の指揮者となり、啓蒙期の楽界にあって、フランス印象派を中心とする近代・現代音楽の紹介に努める。
18歳より作品を発表し、生涯作品を生み続けた。その総数およそ350曲。管弦楽作家として「内燃機関」(32歳)をはじめ、「明石海峡」(42歳)「交響楽ホ調」(55歳)「交響的幻影 イタリア」(74歳)等40数曲を作曲。
室内楽の作品は、ピアノ曲「白鳳の歌」(33歳)をはじめ、ヴァイオリン・ハーモニカ・アコージョン等あらゆる分野にわたり、弦楽四重奏「神曲」(81歳)におよび40数曲を作曲。 マンドリン・ギター等の撥弦楽器を愛好し、初期の「ギター四重奏」(26歳)から、死の前年(91歳)「ディヴェルティメント」「ソナタ」のギター独奏曲まで、独奏・合奏・編曲70数曲に及ぶ。吹奏楽にも力を入れ「海の行進曲」(33歳)をはじめ10曲余がある。
劇音楽は永井荷風(右写真)との親交から生まれた、オペラ「葛飾情話」(41歳)、わが国トーキーの第一作「藤十郎の恋」(41歳)、人形劇「蛙になった王子様」(84歳)等20曲余に記念的作品が多い。
声楽作品は「ある女」(34歳)から「冬の窓」(永井荷風作詞)(46歳)等約三十曲。世俗的なものでは慶応義塾「丘の上」が愛唱されている。
典礼楽・宗教楽についてはルネッサンスやバロック形式と共にカトリックのローマ典礼固有の聖歌であるグレゴリオ聖歌の影響が非常に大である、というよりも、そのものと言ってよいであろう。
これは11歳でプロテスタントの洗礼を受け、後年、カトリックに帰正(霊名フランチェスコ・ジョヴァンニ)した宗教的生涯から、この分野に最も力をそそいだことからくる。特に晩年は聖譚楽「預言書」(60歳)、「日本の殉教者のためのレクィエム」(ヨハネ・パウロ2世教皇様に献呈された)(83歳)、日本語のミサ曲「聖体祭儀」(89歳)と集中し、ついに絶筆となったカンタータ「ヨハネの黙示録」に及ぶ。その数30余曲で大曲が多い。
先生は作曲の傍ら帝国音楽学校教授(33歳)となり、また野に在っても多くの後進の指導にあたり、「管弦楽法」「楽器図説」「和声法要義」等の名著を著す。
洋楽を中核としながらも、初期より雅楽・声明等日本の古典を研究し、中期には宮城道雄・久本玄智等の邦楽と共作し、戦後はイタリア現代作曲家ピッツェッティとの親交、また数度にわたる渡伊を通し、イタリア古典への傾倒、グレゴリオ聖歌の研究等から日本と西洋の音を通して融合を目指し、それは高い独自の旋法性の音楽として多数の作品に結実する菅原明朗先生自身の確信の道を歩み続けた。1988年4月2日午後7時(92歳)カンタータ「ヨハネの黙示録」作曲中、終曲の最中に帰天する。
【菅原明朗先生の歴史的意義】
日本の作曲家の草分け山田耕筰の11年後に生まれた同時代の作曲家。山田がドイツ・ロマン主義の影響を受けたの対し、菅原先生は自身の作曲を続けながらフランス近代音楽を指揮し続け、また、深井史郎、服部正、古関裕而、小倉朗、須賀田礒太郎、伊藤昇等多くの弟子を育てた。
はじめ先生はフランスのドビュッシーやラヴェルらの音楽に日本音階との近似点を見出したが、次第にこれらの技巧的で感覚的な音楽から離れ、グレゴリア聖歌などの高貴で典雅な作風に傾斜した。
それまで歌曲の分野を中心としていた日本の作曲を器楽曲、オーケストラにまで広げた先生の功績は日本音楽史上の金字塔の一つである。
尚、先生の一部の作品に関しては国立(くにたち)音楽大学図書館にスコアが保管されている。
【葛飾情話について】
友人であった永井荷風の台本に菅原先生が作曲して昭和13(1938)年に初演された比較的短い作品で、日本の創作オペラ史のごく初期に位置する、ユニークな作品である。しかし、この作品のオリジナルな総譜は断片的なものしか現存しない。
これは総譜が戦災によって焼失したためと考えられていたが、半世紀以上を経た平成10年に全曲のピアノスコアが先生の遺品整理中に偶然に発見され、それをもとに菅原明朗門下最後の弟子、高橋如安の手でオーケストレーションが行なわれ、平成 11年に蘇演された。
(後略)
☆
『ガンジーの会』のサイト
http://ganjisan.exblog.jp/m2005-04-01/
《葛飾情話、上演によせて~永井荷風とオペラ『葛飾情話』~》 by末延芳晴氏
1903年9月、「アメリカに渡って実業でも身につけて来い」という父親の思惑を受け入れ、西海岸部のシアトルに渡った永井荷風は、そこで、オペラという劇音楽芸術に関心を抱き、オペラ関係の書籍をニューヨークから取り寄せ、オペラの何たるかを勉強し、オペラ作家になりたいという夢を持つようになる。しかし、アメリカ西海岸北部の港町シアトルは、まだ西部開拓時代の雰囲気が色濃く残る町で、本格的オペラの鑑賞は望むべくもなかった。荷風が、本格的にオペラに出会っていくのは、2年後、ニューヨークに移り、ウォール街にあった横浜正金銀行の現地職員として働き始めてからのことであった。荷風は、夕方、銀行の職務を終えると、直ちに、メトロポリタン歌劇場に足を運び、ワーグナーやプッチーニ、ヴェルディなどのオペラを、英語の対訳を参照しながら鑑賞、オペラの何たるかに目を開いていく。おりしも、メトロポリタン歌劇場は、世紀のテノールカルーソーやメルバ、エンマ・イームズ、リリアン・ノルディカ、ジェラルディン・ファーラなど、世界的な歌手が夜毎喉を競い合い、第一期の黄金期を迎えていた。荷風は、正に、グランド・オペラの全盛期に、望みうる最高の歌手の歌で、オペラを鑑賞し、その真髄に目を開いていったのである。
その荷風が最初に全身が震えるほど感動したオペラは、1906年1月5日に聞いたワーグナーの『トリスタントイゾルデ』で、そのときの感動を、荷風は日記に「余は深き感動に打たれ(中略)無限の幸福と希望に包まれて寓居に帰りぬ」と記している。以来、荷風は、『タンホイザー』、『ローエングリン』、『ニーベルンゲンの指輪四部作』、『パルジファル』とワーグナーのオペラを集中的に聞いていく。しかし、『タンホイザー』を2度目に聞いた辺りから、ワーグナーの純潔な処女による宗教的救済という思想に違和感を抱き、ワーグナーの楽劇から離れていく(この間の事情については、『あめりか物語』に収められた「旧恨」という短編小説に詳しく記述されている)。そして、グノーヤベルリオーズなどフランス・オペラへと関心を移し、結果としてドビュッシーの音楽に出会っていくことになるのである。
1908年、リヨンとパリを含めて、わずか8ヶ月余の短いフランス滞在を打ち切り、日本に帰国した荷風は、小説家として立つと同時に、書くことを通してオペラの創造に関わりたいという夢も持っていたはずである。しかし、当時の日本の社会的、文化的状況がオペラの創造を許すはずもなく、荷風は小説家として立つことには成功するものの、オペラ作家として立つ道は断念(この間の事情は、『新帰朝者の日記』に、欧米留学から帰国したピアニストの口を通して辛らつに語られている)。大正時代に入って、浅草オペラが全盛期を迎えても、見向きもせず、あれほど詳細を極めた日記『断腸亭日乗』を読んでも、浅草オペラについての記述は一行も残していない。全盛期のメトロポリタン歌劇場で本場のオペラを聞き込んできただけに、荷風にとって、浅草で演じられるオペラはオペラとして見なしえなかったのかもしれない。
ところが、時代が昭和に入り、アメリカからジャズやダンスが流入し、いわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」の時代を向かえ、大衆的娯楽の主流がオペラから映画に移り変わり、浅草オペラが衰微を極めた頃になって、荷風は、遅ればせながら浅草オペラに出会っていく。隅田川の向こう側、玉の井の私娼「お雪」との交情を描いた傑作『 墨東綺譚』を書き終えた荷風は、浅草の新吉原の娼婦をモデルに小説を書こうと浅草に通っているうちに,六区の劇場外で唯一オペラ興行を続けていた浅草オペラに足を踏み入れ、そこで演じられていたオペラやアメリカ風レビューに意外に味わい深い人情味が残っていることを発見、連日のように入り浸るようになる。
こうして、浅草オペラが持つ可能性を見極めたうえで、これなら自分が考えているオペラが上演できるかもしれないという思いに駆られ、また、たまたまフランス音楽に造詣の深い新進作曲家菅原明朗と知り合ったことで、創作オペラ上演の話がとんとん拍子で進み、荷風は『葛飾情話』と題して、上演時間で1時間余りのミニ・オペラの台本を書き上げる。オペラは、昭和13年5月17日、大入り満員の盛況の中、初演され、一日三回、十日間連続公演でどれも立錐の余地もないほどの大入りで、記録的な成功を収める。この成功に気を良くして、荷風は、菅原明朗と組んで二作目のオペラ創作に意欲を燃やすが、既に時代は戦争色一色に塗りつぶされ、オペラ創作の試みが定着するはずもなく、不幸にも荷風の夢ははかなく烏有に帰す。それは、荷風個人の夢だけでなく、日本における創作オペラの唯一の可能性が消滅したことをも意味していたのである。
不幸は更に続く。空襲で、『葛飾情話』の楽譜が焼けてしまい、再演の手立てが全く失われてしまったことである。再演は不可能と、荷風のみならず、作曲者の菅原明朗までもが思い込み、一部荷風研究者の間で「幻のオペラ」として記憶される以外、『葛飾情話』は、半世紀以上も完全に忘れられた存在に甘んじてきたのである。ところが、1999年夏、菅原明朗の最後の弟子に当たる作曲家高橋如安氏の骨折りで、明朗の妻で、初演の時「よし子」を歌ったソプラノ歌手永井智子の遺品の中から、このオペラのピアノ用スコアが発見され、ようやく再演の道筋が開かれたのである。
6年前、荒川区民ホールで再演された時は、シアターのキャパシティが2000人近く、初演の時の浅草オペラより5倍も大きく、またオーケストラ・ピットがないため、ステージをオーケストラ用と舞台用と二つに分け、更にオーケストラもアマチュアの区民オケ・・・・と不利な条件での上演を強いられたため、初演時のステージの密度の濃さと聴衆と一体となった劇場の熱気の再現は望むべくもなかった。
今回の再演に当たっては、そうした反省を踏まえて、高橋如安氏が、初演時の小編成のオーケストラ向けに編曲しなおし、ルーマニア国立ブカレスト歌劇場から同歌劇場常任指揮者の井上宏一氏を招き、プロのオーケストラの演奏で再演されるという。初演時の密度の濃さと熱気の再現が期待されるゆえんである。
さらにまた、今回の再演の意義を考える上で、6年前の再演時と今とで、社会的、政治的状況が大きく変わってきていることを見落としてはならないだろう。具体的には、自衛隊のイラク派遣とリンクする形で、憲法改悪の動きが現実的に政治プロセスに乗せられ、荷風があれほど嫌悪した軍部(防衛庁と自衛隊)と軍利、物事を武力で解決しようとする殺伐とした時代が再び到来しようとしている。
そのような時代の流れにあって、荷風がなぜこのオペラの創作・上演にあれほどの情熱とエネルギーを注いだか、そして一日三回、一週間に及ぶ公演期間中、なぜあれほど大勢の聴衆が押し寄せ、喝采を送ったのか、その理由を考え直してみることは、日本における真にクリエーティヴな創作オペラの可能性を考える上でも、更にまた、戦争に再び向かおうとする時代の流れに対して、文学者、いや芸術家が表現を通してどう対峙し、市民を巻き込んだ形で「ノン」の声を挙げなければならないかを考える上でも、極めて意義深い試みだといえよう。そうした意味で、このオペラの再演がここ北区区民会だけで終わることなく、日本全国各地で上演されることを願わざるを得ない。(ガンジーの会・ホームページ・マイオピニオン200年4月13日より転載)
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永井荷風の昭和16年2月4日の『断腸亭日乗』より。
「立春 晴れてよき日なり。薄暮浅草に行き・・・楽屋に至るに朝鮮の踊り子一座ありて日本の流行歌を歌う。・・・朝鮮語を用いまた民謡を歌うことは厳禁せられていると答え・・・余はいいがたい悲痛の感にうたれざるを得ざりき。・・・余は日本人の海外発展に対して歓喜の情を催すこと能わず。むしろ嫌悪と恐怖とを感じてやまざるなり」
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『荷風から:下降と「人びと」の構成(1)
Thinking from Kafu NAGAI:Descending and Construction of the "People"』by 原田達 氏
http://www.andrew.ac.jp/sociology/teachers/harada/profile/sociology1/kafu.html
(永井荷風の反戦思想の本質について考察しながら、鶴見俊輔氏がなぜ荷風の思想に共鳴しているのかを分析している論考です。荷風の、反戦思想に見える思想が実は単純なものではない。。。という捉え方が興味深いと思います。)