城壁に囲まれた〈町〉へのただ一つの入り口の検問所脇の側溝に、秋のある夕方、薄汚れた犬が死んでいたことがあった。その事実は、大きめのぶかぶかな毛糸靴下を履いて就寝しようとしていたメゲネル検問所長のもとにすぐに伝えられ、裁判所へも速やかに報告されたが、酒精で脂ぎった不夜城のごときお歴々の集う〈町〉の裁判所は案の定その犬が〈町〉に入ろうとしていたのか〈町〉から出ようとしていたのかを朝までおいてはおかれぬ大問題とし、検問所長に事実を直ちに判事の前で詳細に説明せよと出頭命令を下したので、犬の第一発見者たる検問所三等係官オルサブローはその夜のうちに寝室兼書斎代わりの家の物置から検問所に呼び出され、検問所事務棟の木製扉脇の壁に自転車を立て掛けた。〈町〉の門を出た城壁際に立つ検問所事務棟は、各壁に其々の窓の大きく取られた石造りの三階建てで、一階の当直室の灯りと、三階の所長室の灯りが、煌々と外に洩れていた。
制服のオルサブローは幾分俯きながら木製扉の前に立ち、「こんばんは。当直お疲れさまです。オルサブローです。」と軽く三回ほどノックをした。すると、しずかに扉が開いて、検問官の制服に身を包んだやや小柄な少女が顔を出した。それと一緒に外へハーブティーのよい香りがこぼれてきた。「オルサブローさん、たいへんなことになって。とにかく中へお入りくださいな。」彼女は、その夜の深夜当直の三等係官アスフィータだった。オルサブローは、アスフィータに軽く微笑みながら「アスフィータさん、君にもいろいろと心配をかけて済まない。それで、所長はもう部屋に来られているのですか?」と尋ねた。「はい、つい先程部屋に入られました。所長ったら、『〈町〉の裁判所の能天気な奴らと来たらまったく』とぶつぶつこぼしていましたよ。」アスフィータが所長の口真似をすると、オルサブローは思わず吹き出し、アスフィータもくすりと笑った。「ありがとう。では、所長のところへ行ってきます。」オルサブローは、当直室奥の階段を急いで駆け上がって行った。
その翌朝の、まだ早い時間のことである。〈町〉を取り囲むように広がる森の中にこじんまりと佇む修道院では、たいへん豪勢で荘重なオルガンがひとしきり鳴り響いて朝の礼拝が行われたところだった。オルガンが止むと、小柄で初老の修道士がひとり聖堂の扉を開けて出て来た。彼は明るみ始めた辺りを見渡して優しく微笑んだ。聖堂の前の木々にはたくさんの小鳥たちが思い思いに枝へ留まって歌をうたっており、そばの薮には狸や兎などの獣たちが息を潜めて音楽に身を委ねている気配があった。彼はしづかに「そうだな、今日も昨日のシンフォニーの続きを書こう。」とひとりごちて、ゆっくりと聖堂の隣の質素な小屋へ入っていった。窓際に机と椅子があり、やや広めの机の上には数本のペンと整然と書き込まれた譜面と、隅にまっさらな五線紙の束が載っていた。修道士は、フンフン、フンフンと軽く鼻唄を洩らしつつ 、椅子にゆっくりと腰を下ろし、机のペンを取り上げた。
その頃、オルサブローは森の中を時折後ろを振り返りながら息を切らせて駆けていた。先刻まだ辺りの薄暗い中、検問所事務棟を出て、自転車を押しながら家路についたが、〈町〉への入り口の門に差し掛かったところで、〈町〉の方から出てきた〈黒い影〉が突然前に立ち塞がった。オルサブローはえもいわれぬ寒さを覚えて咄嗟に傍らの自転車に跨がり、〈町〉とも検問所事務棟とも反対の森の方へとペダルをぐんぐん漕ぎ出した。〈黒い影〉はひたひたと追ってきた。オルサブローは途中で自転車を乗り捨て、森の中を駆けて逃げた。〈黒い影〉も馴れた足取りで森のなかに入ってきた。複雑に絡み合った大きな木の根はオルサブローの足元に縦横無尽に伸びてともすると彼を躓かせその場に押し留めようとしたが、その度に彼は腕を振って体勢を立て直し根を飛び越えていった。幸い〈黒い影〉との差はそれほど詰まってはこないようだった。そうしながら彼の胸のなかでは、こうして逃げている状況がやはり今一つよくわからぬままではあった。薄暗い森のなかを駆けながらオルサブローは後ろをまた振り返り、根を飛び越えて前方に視線を戻した。木々の間の遥か先の方が明るんでいるのが見えた。
その頃、アスフィータは、「今日は能天気ども相手に疲れたよ。いつもお疲れさん。ありがとう。君も気をつけて帰るんだぞ。」と三階から下りてきたメゲネル所長を見送り、所長室のハーブティーのカップを片付けに三階に上がった。所長は、オルサブローの話を聞いてから裁判所へ出掛け、また、検問所へ戻ってなにやら書類をずっと作っていた。アスフィータは、灯りのついたままの所長室に入ると、整然と片付けられた机上を眺めて、カップをお盆に載せ、ドアに戻って軽く一礼をして、灯りを消し部屋を出た。階段をしずかに降りて一階に戻り、アスフィータは、窓の外が白々と明るみ出しているのを見て、ふううと小さく息を吐(つ)いた。
森のなかでは、オルサブローは、先に見える明るみを目指して駆けていた。明るみはすぐそこだった。「よし」と歯を食い縛り、ぽんとからだを明るみの方に投げ出すと、それまでずっとあった後ろの〈黒い影〉の気配がすううと消えるのを感じた。オルサブローは倒れたまま何度も激しく息を吐いた。
そこは、森の修道院の聖堂の前だった。聖堂の隣の小屋の扉が小さく開いて、老修道士が顔を出した。オルサブローはよろよろと立ち上がった。「おやおや、何かに追われてきたのじゃな。」と修道士はオルサブローに語り掛けた。そして、素早く辺りを見回して耳を澄ませ、「取り敢えず君を追ってきたものたちはいなくなったようじゃ。何もないが、まずはこちらの小屋で少し休んでいかれたらどうかな。じつはいま天のミューズと対話しながらひっそりとシンフォニーを書いていてね。本当にここには自慢じゃないが何もないが、多少、君の話し相手ぐらいはできるだろう。」と小屋の扉を大きく開いて、オルサブローに優しく微笑みかけながら手招いた。オルサブローは、息を吐きながら「修道士さま、突然に申し訳ありません。ご親切にありがとうございます。」と、修道士の方へ歩みを進め、小屋に足を踏み入れた。修道士は隅の椅子の一つをオルサブローに勧め、ポットからカップにハーブティーを淹れてオルサブローに渡し、オルサブローは手に受けたカップから立ち上るハーブティーのよい香りを鼻いっぱいに吸い込んだ。
修道士は、オルサブローを向いて、「少しは落ち着きましたかな。」と優しく微笑んだ。「君の方で良かったら、何があったか話を聴かせてもらえますかな。君の話を聴いた私が君の役に立つかどうかは分からないが、君の身に何が起こったか非常に気になるのでね。どうだろうか。」オルサブローは修道士のことばに、この人だったら全てを話しても大丈夫と直感した。「はい。実は昨日の夕方のことでした。」と、死んだ犬を見つけた話から、オルサブローは語り始めた。修道士は、優しい眼差しをオルサブローに向けたまま、時折しずかな相槌を挟みつつ彼の話に真剣に耳を傾けた。オルサブローがとっくりと話し終えて息をつくと、修道士は微笑んだ。「君もじつに大変だったね。話してくれてありがとう。君が見つけた犬はもしかしたら、この森の外れのどこかにあると言われる〈女王の境界線〉を越えて逃げ出してきた〈星を守る犬〉の一頭で、君を追って来た影は犬を始末するべくあちらからやってきた〈狩人〉だったのかもしれない。何事も無ければよいが、取り敢えず、君も私も、〈町〉の全ての人びとも、当分用心するにこしたことはないかもしれないな。」と言い、オルサブローを見た。オルサブローの顔にはやや強張った緊張が現れていた。修道士はすぐさま言葉を継いだ。「もちろん、なにごとにも過剰に恐怖心を抱く必要はないんだがね。」その言葉を聞いても、オルサブローの背筋をぞわぞわと這い上ってくる得体の知れない寒さを食い止めることはできなかった。オルサブローは少しだけ身をぶるっと震わせた。
〈続く〉
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