大政奉還のあと戊辰戦争が始まった。そんなある朝、上役の勝海舟からの至急来られたしの連絡を受けた松濤権之丞は、茗荷谷の屋敷から馬を駆けらせ、赤坂の海舟の屋敷へ行った。海舟は書斎に端座して何やら書状をしたためていた。「権さんや、早くから相済まぬ。今から内々に動きたいことがあってな。ちと付き合うてくれんか。池上へ行く。」と権之丞に言った。ふたり各々馬に跨がり、赤坂を出て、池上本門寺総門前の茶屋脇に馬を繋いだ。頃は昼近くになっていた。総門をくぐって、九十六段の石段を上り、境内奥の旧本坊庭園に面した建物の玄関口に着くと、案内役の僧侶が出てきた。その後を付いて廊下を進んで部屋へ行くと、まだ誰の姿も見えなかった。海舟は僧侶へ礼を言い、僧侶が下がると、すぐ後ろの権之丞を向いて少し微笑んだ。「権さん、南洲先生はまだのようじゃった。こちらが先着でよかった。」「勝先生、よろしうございましたな。」権之丞も少し明るく応えた。海舟が、西郷南洲との密談場所に池上本門寺を選んだのは、そもそも南洲率いる新政府東征軍の本陣が本門寺総門近くの理境院に置かれ、本門寺境内奥に人払いの容易な庭園東屋があることを人伝に聞いたからだった。
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